第11回 嘉納塾3 おのれが十のものを与えて三か四をとるようにしろ
最後に、嘉納数え年54歳のときの嘉納塾の同窓会における講話である(嘉納・体系5巻52〜57頁)。
自分が今日この席で話したいと思うことはまことにたくさんあるのであるが、今日はその一つとして、塾が創立以来一貫してきた精神が今日の教育上ますます必要であるということについて述べようと思う。
まず、塾が創立以来、今日に至るまで一貫した精神とは何であるかというに、これは、おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養うということである。
もとより、自分も力が足りず考えに思うことも実行するあたわざることもあったし、また自分を助けている者も必ずしも常に最も適当な方法で自分を助けていたとはいい兼ねるが、しかし、その精神においては、おのれを抑えて他のために尽くすということにあったことは断言して憚らないのである。
今日、我が国は、西洋文明輸入のために多大の利益を受けたが、同時にその害もまたはなはだ少なくはないのである。その一としては、在来我が国の美風の一であった謙譲の精神というものが廃れて、何でも貪り合うようになって、これをもって人間の本性であるかのように思うようになったことである。
西洋文明の真精神は、かくのごときものでなかろうけれども、他方に生活難ということがあって、このためにますますこういう状態を誘起し、最初は悪いことではあるが、やむを得ずやるということがいつしか習慣となって普通の事となったのであるが、しかしながら、かかることはすこぶるよろしからぬことである。
もちろん場合によって、相手が無暴なことをする時に腕ずくでやらねばならぬこともある。また、相手から侵されぬうちにあらかじめ攻撃する必要もある。これは国際間にも私人間にも同様であるが、これはいかなる場合にもかくせよということは出来ない。
真の人道なるものは、互譲ということにある。毎年元旦式の席上でいうように、おのれが十のものを与えて三か四をとるようにしろということである。お互いにこういうふうにして、余分のものはこれを平和的に分ったならば何らの争いもなく、至極平和であってかつ幸福であることができる。
世の中の事もかくのごとくしてやるべきものであろう。そうしたならば、余計なことに頭を悩ますこともなくて、まことに楽である。もっとも、世の中には善人ばかりではないからして、暴悪の人間に対する用意もまたなければならぬ。しかし、これはごくごくやむを得ざる場合のほかには出すべからざるものである。
かく真の人道が互譲にあるとしたならば、今の世に真の成功者という者がはたして幾人あろうか。世のいわゆる成功者のはたしておのおの 精神上の満足を得ているであろうか。いやいや多くのいわゆる成功者は、成功しながら煩悶しているのである。これ真の成功でないからである。
すなわち、おのれ一身の欲望を満たさんために行動して、良心の満足というものを度外するからである。すなわち、自己の仕事にのみ着目して社会全般のことを考えないためで、ごく公平の眼をもってこれを見れば、彼らは多くは真の成功者ではない。
今、仮に、こういうやり方で他人に対してずいぶん害も与えたが、また予また世のためにも大いに益したという人があるとしても、もしこの人が正道を進んだならば、さらにさらに大事をなし遂げることが出来たであろうと思われるのである。
これを柔道やその他の武芸に譬えていうならば、その真剣勝負の際に真に勝たんと欲せば、まずおのが身を捨てねばならず、おのが身を捨てることによって度胸も据れば、機先も制することが出来て、おのれの目的を最もよく達することが出来るのである。世の中のこともまた同様である。何事もまずその最悪の場合を想像して、まずおのれを捨ててかからなくては大事をなすことは出来ない。
人間の生涯も志は最も大なるを要するが、あまり種々の希望を持つことはかえってよくない。希望が多ければ、それだけとかく失望ということがこれに伴い、また事ごとに齟齬というものが伴う。
すなわちおのれ一身は、実力よりもはるかに下に位せしめて、日常の生活行動ともにその最難をもって鍛える覚悟なる時は、世に立っても決して余計なことに失望もせなければ、野卑な利己主義をあえてする必要もないからして人間の真の成功は確実になるのである。
また、世のいわゆる成功者もその正式の順序も踏まないでなした者は、その事業が大成するのは実に千の内の一つよりない。すなわち、自分不相応の事をしているものは、いつかはおのれの身を滅ぼし、引いて世を腐敗せむるものである。
吾人は、いたずらに社会上の地位や名望等を無理に得ようとするときには、他人との競争のため、また地位に相応する責任のためその他種々の外囲の事業のために、おのれの力を空費すること多く肝腎の自分の仕事はついになすあたわざるようになるであろう。
もし、自ら抑え、志高しといえども好んで下の地位におり、おのれを空しくして大事を策し、これをもって終生の事業として大いにその実力を養うならば、大事の成ることは期して待つべきであろう。かくしてなお自ら進まず先人を推して自らは謙遜すべきである。かくして競争は避けることが出来る。
もしもおのれに実力があるものならば、たといいかに謙遜するとも、人は自然におのれを推挙するものであるからして、得たる地位権力、すなわち、人より推されて与えられしものこそ真にその人のもので、また身分相応の事であるからして、世人の評もまた決して悪くなるというようなことはない。
しかしながら、今の世の中の人には、この辛抱をなし得る人が少ない。自ら下って人をまず薦めるということをよくしないで、先人を退けても自分がその地位に居ろうとする、いたずらに世のいわゆる成功を急いで、このために大事を誤るものが少なくはないのである。
しからば、かかる事をなし得るようになるにはいかにすればよいか。すなわち、自ら苦境に立って人を楽境に立たしめ、すべての栄誉というものを他人に与えて恬として顧みないようになるには、いかにすればよいのかであるか、というに、一口でいえば これは、子供時代からの習慣によるものである。
すなわち、何事でもまずおのれの全力を尽くして奮闘し努力し、しかもなお、超え得ざるものに遭遇して始めて他の助力を待つべき精神である。我儘をする習慣のあるものは、何でも自分はうまい事ばかりし、また栄あることのみをしようとする、かくのごとく苦しい事を避けたり、またはなし得ない者がいかにして世の事業をなし、また人の上に立って事をなすことが出来ようか。
かるがゆえに、塾の精神は、この我儘を抑え、種々の艱苦に堪え得べき人間を作るのを目的としている。寒き朝早く、起きて雑巾掛けをすることも事小ではあるが、おのれの艱難に克つ力を養う基なのである。これがやがて万難を排して事業をなす原動力となるのである。
一方、またかかる比較的下の者が行う掃除のごとき仕事は、他日、世に出て人の上に立つときに下々の苦労を察し得ることとなり、これが同情となり、同時に、下々の心服を得て、事をなすにますます便益を与うるものである。
我儘に育った者が上流に立つときは、必ず上下の懸隔を生じ、意思また疎通せず、ついに重大なる社会問題を勃発せしむることになるであろう。我が国は、この上下の争いということについては、幸いにして従来甚だしい事はない。この点は大いに保存して、欧州の状態を模倣するなからんことを要する。
しかして、かかる問題を発生せしめざるためには、上流に立つ者が下流に立つ者に対して同情を有さねばならぬ。しかも、真の同情は、自らその境遇に立ってみなければ分からぬものである。
欧州などでは慈善家などもたくさんあるようだけれども、その大部分は名を得んがためで、この傾向は日本においてことに甚だしい。かかる慈善は、実際においてはなんらの効もない。真の慈善すなわち経験より割出した慈善でなければならぬ。塾の教育はこれらをもまたその目的とする。
もとより、これらは塾教育の全部ではないが、終始一貫して塾生の生活の根本をなす一である。この根本精神は、現塾生はもちろん、古き者もこの精神をどこまでも忘れずにこれをもって処世の方針とせねばならぬ(嘉納・体系5巻52〜57頁)。