思い描く未来をカタチにする

このブログはNPO法人judo3.0のウエブサイトに移行しました。

2010年8月7日(第1回)から2013年8月31日(第43回)まで、約3年にわたって本ブログで想い描いた未来の柔道教育につきましては、2015年1月から、実際にカタチにするべく活動を始めました。
この活動につきましては、NPO法人judo3.0のサイトに掲載されております。
(上記のサイトにて、WEBメディアもはじめ、先進的な取り組みを記事にして発信しています)。

このブログで綴られた構想がリアルの世界でどのような化学反応を起こし、現実と構想が変化していくのか、ぜひご覧になっていただけたら幸いです。
もし、この長文のブログを読んでいただき、共感くださった方と、一緒に活動ができたり、活動にご協力いただいたり(常時サポーターを募集しています)、お酒を酌み交わしながら語り合えることができたら、これほどうれしいことはありません。

第43回 これからの地球からみた柔道(通過儀礼~神話と祭り〜)(5)

前回までイニシエーションについて考察し、(1)イニシエーションの中核にあるものは神話であること、(2)近代は、神話の喪失によってイニシエーションが失われ、子供から大人への成長が困難になった時代であること、そして、(3)もし現代に即した新しい神話があれば、現代に即した新しいイニシエーションを構築できることにふれた。

神話がキーになるわけであるが、神話学者ジョーゼフ・キャンベルは次のようにいう。

ある人間が他の多くの人のお手本になったとき、その人は神話化の過程に入っているわけです。
(ジョーゼフ・キャンベル「神話の力」文庫版65頁)

イニシエーションとしての柔道

世界200カ国以上の国々に普及した柔道、その創始者である嘉納治五郎は多くの人々のお手本になっているが、実は、嘉納治五郎の物語は「神話」なのではないだろうか。
実は、ひとたび嘉納治五郎の物語が「神話」として捉えると、柔道のこれからの姿が明瞭に現れてくる。それは、柔道とは、嘉納治五郎の物語を再現する通過儀礼、「イニシエーション」であるという認識であり、「イニシエーション」として機能する柔道である。
本稿は、柔道の新しい仕組みとして、世界200カ国以上のネットワークを活用し、青少年が異国の道場にいって、異国の人々と寝食を共にして稽古をする機会を提案しているが、実は、これは世界が共有する新しい「イニシエーション」の提案にほかならない。

以下、(1)これまで何度かふれたが、改めて、「神話」は人間の発達とどのような関係があるのか?、(2)何故、嘉納治五郎の物語が神話なのか?、(3)イニシエーションとしての柔道とは何か?という三つの点から敷衍していきたい。

神話は人間の発達とどのような関係にあるか?

嘉納治五郎は、ヨーロッパを訪問した際、精神科医のグスタフ・ユングを訪ねたようであるが(ユングは留守だった)、人間の発達と神話の関係を考察したのがこのユングである。以下分かりやすくするため、大幅に単純化してユングの考えをみていきたい。

「発達」しなければ神経症になる。

まず、ユングは、精神科医として多くの患者の診察をしたが、そこで直面したことは、人は精神が適切に「発達」しなければ、何らかのトラブルを抱え込むことになるということであった。

人生のさまざまな問題に対して不適切なあるいは間違った回答を出して甘んじているとき、人は神経症になることを、私はこれまでに何度となく見てきた。彼らは、地位、結婚、名声、外面的な成功、金を追い求めるが、自分が求めているものを手に入れたときですら、不幸で、神経症的なままである。そうした人々はふつう、あまりに狭い精神的な枠のなかに閉じこめられている。彼らの生活はじゅうぶんな意味をもっていない。もし彼らがもっと広い人格へと発達することができれば、神経症は一般に解消する。それゆえ、発達という観念は、私にとってはつねに何よりも重要だったのである。(アンソニー・スティーブンス・鈴木晶訳「ユング」185頁)

その時々に適切な「発達」がなければ何らかの精神的トラブルを抱えることになる。このことは、例えば、心理学者エリクソンは、年齢に応じた発達課題として次のように指摘している(エリクソンの発達課題心理学COCOROの法則: エリクソンの心理社会的発達理論)。

  • 0〜2歳で、自分自身や周囲の人を基本的に信頼する「基本的信頼」。これが身に付かないと自他を信頼できなくなる。
  • 2~3歳で、自分の衝動をコントロールする「自律性」。これが身に付かないと自分は自分を恥じるようになる。
  • 3~6歳で、自分の周りに積極的に働きかける「自発性」。これが身に付かないと自発的に活動することはよくないことだと思ってしまう。
  • 6~13歳で、周りから期待される行動を自発的・継続的に行う「勤勉性」、これが身に付かないと自分は劣っていると感じるようになる。
  • 13〜22才で、自分とは何者かを定めて自らの道を歩む「アイデンティティ」。これが身に付かないと自分が何をしたいのか分からなくなる。
  • 22〜40歳で、異性などと親密な関係を築いていく「 親密性」、これが身に付かないと孤独になる。
  • 40〜65歳で、次の世代を育成する「世代性」。これが身に付かないと停滞する。
  • 65歳〜で、死を前にしてこれまでの経験を統合していく「統合性」。これが身に付かないと絶望する。

このように、ユングは、人は発達しなければ精神障害など何らかのトラブルを抱えるという事実に直面し、どうしたら人は発達できるのか、そもそも何故人は発達ができるのか、という考察に向かった。

人は、何故、「発達」できるのか。

その結果、ユングは、まず前提として、人は、自分では自覚できないが、生まれながらにして精神の発達を促すプログラム(「集合的無意識」「元型」)を持っているという結論に至る。

たとえ近代化が大きく人の生活を変えたとはいえ、人間が抱える精神的な課題は古来からほとんど変わらない。例えば、小さいときは家族に依存しなければならない、あるとき独立しなければならない、集団の中で働かなければならない、家族をもち子供を育てなければならない、大切な人をいつかは喪わなければならない、いずれ老いて病気になり死んでいかなければならない、などであるが、これらの課題は人類誕生のときから同じであり、古今東西の人間が乗り越えてきた課題である。
ユングは、人には(自分では気づかないが)これらの課題に対応するプログラムをもって生まれてきており、適切なタイミングでこのプログラムが起動するからこそ、人は「発達」することができる、逆に、何らかの理由でこのプログラムがうまく起動しないとき、精神的なトラブルを抱えるようになると捉えたのである。

患者はこんなふうに考えるようにと教えられる -症状は存在全体の不均衡から生じたのであり、その不均衡は、元型の意図が実現されなかったことの結果である、と。治療とは元型の欲求不満を正し、一面性を捨てて、人格全体のなかで対立し合っている力どうしの間に新たな均衡をもたらすための方法を見つける助けをすることである。それをなしとげるには、自分の意識的な状況だけに係わっていたのでは充分でない。大事なのは無意識の状況を知ることである。そのためには夢分析と転移分析が欠かせない。(アンソニー・スティーブンス・鈴木晶訳「ユング」189〜190頁)

このように、ユングは、人の心の中には「無意識」という領域があり、ここに精神発達のプログラムが内包されていると捉えたのであるが、それでは、どうしたらこのプログラムを適切に作動させることができるのだろうか。なにしろ、このプログラムは自分では分からない「無意識」の中にあり、コントロールできないのである。

「物語」や「イメージ」の効用

ユングは、このプログラムを作動するキーは、「物語」や「イメージ」であると考えた。

臨床的診断は重要である。医師に、ある一定の方向をあたえるからである。だが、診断は患者の役に立たない。もっとも重要なのは物語である。物語だけが人間的背景と人間的苦しみを明るみに出すのであり、その点からのみ、医師は治療に取りかかることができるのである。
(アンソニー・スティーブンス・鈴木晶訳「ユング」180頁)

具体例として、死というものの存在に脅かされた6歳の子どもが、物語やイメージをもつことで乗り越えた事例をみていきたい。

ある母親がその6歳の男の子のことについて相談に来られた。その男の子が最近になって、死のことについて質問するので困るというのが、その相談の内容だった。家庭は幸福で病人はいないし、最近、知人で死んだ人もいなかった。しかし、その坊やは、自分が大きくなったときのことを考えているうちに、もし自分が80歳くらいになると、お父さんやお母さんはどうなるかを考え始めたらしい。このことは必然的に、死の問題につながり、人間は死ぬとどうなるのかということにもなった。
・・この坊やは、「お母さん、また悲しい話をしようか」といって、母親のところに来て、死について自分の考えたことを話したそうである。あるときは、両親も死ななければならないときがくると話して、泣きながら、「悲しい話だけど、話さないといられない」ともいった。これらを、母親は泣きながら聞き、話し合ったそうである。
しかし、解決はほどなく、この男の子の内部からやって来た。あるとき、この坊やは生き生きと目を輝かして、「お母さん、とうとうよいことを思いついた」とやって来た。「僕が死んでも、もう一度お母さんのお腹の中に入って、また生まれてくるとよい」と、この子は話し、これで、すっかり死の話をしなくなったという。(河合隼雄ユング心理学入門」201〜202頁)

この子どもは、死におびえるようになり、一種の精神的な危機を迎えたわけであるが、「僕が死んでも、お母さんのお腹の中に入って、また生まれてくる」という物語やイメージを得ることによって乗り越えることができた。単純にいうと、この物語やイメージを得たことによって、無意識下のプログラムが作動し「発達」したのである。

「物語」や「イメージ」の特徴

この無意識下のプログラムを発動する物語やイメージには、二つの特徴がある(河合隼雄ユング心理学入門」104〜129頁)。
一つは、本人にとって生き生きしたものである、という点にある。
ユングは「理念の特徴が、その明確さ(clarity)にあるとすれば、原始心像の特徴はその生命力(vitality)にある(河合隼雄ユング心理学入門」112頁)」というとおり、「お母さんのお腹の中に入って、また生まれてくる」という物語・イメージは、本人にとって、心に響く、自ら体験したかのような生き生きとしたものであった。
単で頭で、知識で理解しても、通常、人の行動は変わらない。生き生きとした、心に響く物語・イメージであったからこそ、考え方や行動の変容が生じたのである。

もう一つは、その物語やイメージにとって重要なことは無意識下にあるプログラム作動のキーと機能する点にあり、キーとして機能するか否かはその物語の論理性、客観性、現実性と関係がない、という点である。
つまり、現実的に考えれば、既に生まれた人間がお母さんのお腹の中に入ることは不可能である。しかし、このような現実的にあり得ないフィクションによって、無意識下にあるプログラムが発動し、この子どもは「発達」した。

いい方を変えると、この物語やイメージは、言葉では表現できない、そして理解できない何か神秘的なものを、他の方法ではもう表現できないというぐらい、最良に表現したものなのであって(「象徴・symbol」)、子どもは、この表現を得ることで神秘的なものに近づくことができたからこそ、その神秘的なエネルギーを授かり成長することができたのである(「象徴」を得ることで精神内に生じた対立や矛盾の「再統合」が生じた)。

以前も引用したが、小説家の小川洋子は、ユング派の心理療法家である河合隼雄との対談で、物語の効用について次のように表現している。

いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、について何の解決にもならない。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。その恐怖や悲しみを受け入れられるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。
人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言葉では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながっていく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。
生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことにほかならない。こうした意味合いの解釈に触れた時、私は初めて、書くことの意味が何の無理もなくスムーズに心の中心へと染み込んでゆくのを感じました。(小川洋子河合隼雄「生きるとは、自分の物語をつくること」125〜127頁)

このようにユングは、人は、vitalityやsymbolを有する物語やイメージが「発達」にとってポイントになることを発見し、この物語・イメージに働きかけることによって、精神的にトラブルを抱えた人々の「発達」をサポートしようと考えた。その具体的な方法が「夢」である。

人は何故「夢」をみるのだろうか?
ユングは、夢とはvitality やsymbolを有する物語やイメージであるが、人は、夢をみることによって無意識下のプログラムを作動させ、精神の発達を図っていると捉えたのである。したがって、ユング派の心理療法家は、クライアントと夢についてよく話し合う。クライアントと夢について語りながら、無意識下のプログラムが適切に発動するよう導いていくのである。

患者と私はいっしょになって、私たちすべてのなかにいる、二百万年前から生きている人間に話しかけるのだ。結局のところ、私たちの抱える困難な問題の大半は、本能、つまり私たちのなかに蓄積されていながら、昔から忘れられたままになっている知恵との接点を失ってしまったことから生じるのだ。では、一体どこに行けば、私たちのなかに住んでいるこの老人と会えるのだろうか。それは夢のなかである。(アンソニー・スティーブンス・鈴木晶訳「ユング」116頁)

神話

それでは、「神話」は人間の発達とどのような関係にあるのだろうか。
ユングは、患者の夢に介入して治療を重ねる中で、夢と「神話」、精神病患者の幻覚(無意識の表れ)と「神話」が類似していることに気がつく。つまり、単なる「迷信」であると考えられた「神話」が、実は、夢と同じように、無意識下のプログラムを発動させる、vitalityやsymbolを有する物語やイメージであったことに気づくのである。

心像と象徴の心理療法における気づいた重要性に気づいたユングは、古い時代に見出され、以後死んだままになっていた宗教の儀式や象徴の意義を研究し、これらに新しい息吹を吹きこむと同時に、各個人の心のなかから生じる象徴の意義を認め、その研究にも専念してきたということができる。(河合隼雄ユング心理学入門」128頁)

こうしてユングは、神話とは人間の無意識に働きかけて人間の発達を促すために存在している、という神話に対する新しい見方をもたした。現実的にはあり得ないような出来事を語る神話は、実は、「物理的な功業というよりは心理的な功業を表現」しているのであり、無意識下のプログラムを発動させ人の発達を図るために存在していたのである。

悲劇から喜劇にいたる暗部に道筋にたちはだかる特別の危難やからくりをあきらかにするのが神話本来の、そしてまたお伽噺の役目である。それゆえ物語中に描かれている挿話は絵空事であり「現実ばなれ」している。この種の挿話は、物理的な功業というよりは心理的な功業を表現している。たとえ伝説がある実在した歴史上の人物を素材にしている場合ですら、勝利の事跡は真にせまる形姿でなく夢のような形姿でもって描きだされる。
それというのも、その物語の強調点はかくかくしかじかの功業がこの世で成しとげられたというところに置かれていないからである。そうではなく、かくかくしかじかの功業がこの世でなりとげられるに先立ってそれとは別の「心理的レベルでの」もっとも重要で本源的なかくかくしかじかの事柄が、だれもが夢のなかで訪れて馴染みのものとなっている迷宮の内部で成しとげられねばならぬと告げている点にこそ、そうした物語の要諦があるからだ。(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔をもつ英雄」(上)44頁)

英雄神話

それでは、世界には多種多様の神話があるが、どのような神話が人の「発達」を促すのだろうか。
家族に依存して育った子供が、あるとき依存を脱して「大人」になることは、古今東西すべての人間の発達課題であったが、この発達課題を扱った神話が、「英雄神話」「英雄の旅」(hero's journey)である。そして、イニシエーションは英雄の旅の再現イベントであり、子供に対し、この英雄神話を身体で体験する機会を提供して、無意識下のプログラムを作動させ発達を促していたのである。

少年期と思春期における男児の元型的課題は、世界のいたるところに見い出される英雄神話に象徴的に表現されている。英雄神話は、英雄がいかにして家を出て、さまざまな試練をいかに乗り越えていくかを物語る。試練の最たるものが、竜や海の怪物との戦いである。英雄の勝利は、一国の王座につくとか、美しい姫をめとるといった、「簡単には手に入らない宝」によって報いられる。現実においても同じである。人生の冒険へと足を踏みだすためには、家や両親や兄弟姉妹との絆をみずから断って、(ほとんどすべての伝統的社会が課す)イニシエーションの試練を生き抜き、世界のなかに自分自身の場所(王国)を勝ち取らなければならない、それをすべて達成し、妻をめとるためには、いまだ彼の無意識のなかで働いている母親コンプレックスの力に打ち勝たなくてはならない(これが竜との闘いの意味である)。
結局のところ、これは二度目の誕生であり、心的なへその緒が最終的に切断される(竜や怪物と戦う英雄は、しばしばその竜や怪獣の腹に呑み込まれ、まるで自分は帝王切開手術をやるように、その腹を切り裂いて出てくる。その結果、母親の息子としては「死」んで、姫や王国を手に入れるにふさわしい男として「生まれ変わる」のである)。思春期における男性のイニシエーション儀式は、この必然的な移行を容易にする。
(中略)
われわれの文化にはもはやイニシエーション儀式はないが、性別にかかわりにあく、いまだにわれわれすべての内にはイニシエーションに対する元型的欲求が存在している。このことは、分析を受けている患者の夢から推測できる。思春期、婚約、結婚、子どもの誕生、離婚や別居、親や配偶者の死など、人生の危機的な時期に直面すると、患者の夢にはイニシエーションにまつわる象徴がふんだんにあらわれてくるようになる。人生の新たな段階に到達するためには、イニシエーションの象徴を経験しなければならないらしい。社会がそれを提供できないならば、<自己>がそれらの象徴を生み出して、この欠点を埋め合わせなければならないのである。(アンソニー・スティーブンス・鈴木晶訳「ユング」106〜108頁)

一応のまとめ

以上、「神話」は人間の発達とどのような関係があるのか?という点をみた。
人はすべて無意識下に自らの発達を促すプログラムを持っており、神話によってこのプログラムを発動させ「発達」を図っていたのである。そして、数ある神話の中でも、子供が依存から脱して大人になる課題をサポートしてきたのが英雄神話であり、近代以前の社会は、子供に対し、英雄神話を体験(イニシエーション)させ、子供から大人への「発達」を促していた。

それでは次の問いにいこう。では、何故、嘉納治五郎の物語は、この無意識下のプログラムを発動する「英雄神話」に当たるのだろうか。

第42回 これからの地球からみた柔道(通過儀礼~神話と祭り〜)(4)

人の苦しみや争いの根源は、精神的に未成熟な「子ども」を、社会の一員として成熟した「大人」に変えるシステムの機能不全にある。こういった視点からみると、古代・原始社会は、イニシエーションという優れたシステムを持っていた。
そこで前回まで、一体どのようにして、古代・原始社会のイニシエーションは「子ども」を「大人」に変えたのか、という点について、「冒険」「友情」「神話」という切り口からみた。

それでは、何故、共同体はイニシエーションを運営することができたのであろうか。
確かに、未成熟な大人を養う余裕がない古代・原始社会では、子どもが「大人」に変貌できるか否かは、その共同体の存続にかかわる重要の課題である。しかし、重要という理由だけで大人が総出で関与するイベントを長年開催できるとは限らない。このイベントを運営する大人には、どのようなインセンティブがあったのだろうか。

それは、イニシエーションは「神話」を「再現」する「祭り」という形式をとっていた点にあると思われるが、以下みていきたい。

神話の再現

前回、神話(物語)には「つながり」や「意味」をもたらす機能があり、子どもはイニシエーションにおいて開示された神話によって、身体と精神、外界と内界、意識と無意識などが結び付けられ、成熟した大人になることができたことにふれた。ポイントは、この神話の伝え方にある。

神話は、学校の教室で先生が生徒に情報を提供するような形で伝えられたのではない。
大人は、神話上の環境を再現する建造物を作り、神話上の人物を演じ、参加した子どもが神話を擬似的に体験できるよう様々な仕掛けを用意することによって伝えた。いわば体験型アトラクションである。
例えば、神話的祖先が、冒険の過程で、怪物と対峙し殺され、そして一部身体が欠損した状態で再生し、世界を作り上げたのであれば、イニシエーションにおいて、目隠しをされた状態であたかも怪物が登場したかのような音が流れたり、参加者の歯が一本砕かれたりする。

前回、イニシエーションが子どもを大人に変える過程を「冒険」「友情」「神話」という切り口でみたが、つまり、イニシエーションとは、子どもに対し、神話的祖先がたどった足跡を追体験する「冒険」を用意し、神話的祖先と類似の人物を作り上げようとする試みであったといえる。

古代心性を理解するために加入礼に関心を持つのは、とりわけて真の人間−精神的人間―は与えられるものでも自然的な経過の結果でもないことをはっきりさせている点である。人々は神々が啓示し、神話に保存されている手本にしたがい、老師によって「形成される」のである。
エリアーデ「生と再生」269頁)

ポイントは、神話を再現して子どもを大人に変えようとするイベントは、共同体そのものを再生する「祭り」でもあったという点にある。この神話を再生するというイベントは、大人にとっても、自らが神々の世界とつながり、生活が新たに再生される「祭り」であった。だからこそ、大人が総出で関与してイニシエーションが行われたのである。

成人式儀礼は神々や神話的祖先によってその基がひらかれたのであるから、その儀式が執行されるときはいつでもその原初のときに再統合されるのである。これはたんにオーストラリア人にとってのみならず全未開世界にとってそうなのである。なぜなら、ここにしめされているのは、古代宗教の基本的観念であり−神によって基礎を置いた儀礼をくりかえすことは、それが始めて執行されたその始原のときの再現を意味する−、それは聖なる、始めのときの完全性にあずかることになるのである。この儀礼は神話を現在のものとする。神話が始めのとき、「ブガリ時代」(bugari times)に語っていることがらを、儀礼は、ここに、そして今おこったかのように再現し、示すのである。西キンバレー部族の一つのバード(Bad)族が子供に成人式を施すために準備するとき、古老たちは森のなかに隠れてガンボール(ganbor)樹をさがすのである。それは「祖先時代に−ジャマール(Djamar)−この部族の最高神−がこの木の下で休息したことがある」からである。先頭を行く妖術医は「この木を見つけ出す役割を負うている」。それが見つかると、人々はこの木をとりまき歌をうたったあと、火打石製の刀で伐り倒す。神話の木はかくて現然化する。
イニシエーションの間それぞれつづいて行われるすべてのみぶりや手術は、たんに規範的モデルの反復−すなわち、神話時代に、この儀式の創立者によって執行されたみぶりと手術なのである。この事実こそ、彼らを聖なるものとし、これを周期的にくりかえすことでその社会の全宗教生活が再生されるのである。
エリアーデ「生と再生」24頁)

宗教的祝祭は太初の出来事、すなわち神々や半神を主人公とする「聖なる歴史」の再現である。「聖なる歴史」は神話のなかで語られる。祝祭の参加者はしたがって、神々や半神的存在と同時代の者となる。彼らは神々の現在と活動とによって浄められた原初の時に生きる。聖なる暦は時間を、起源の時、「強力」にして「純粋な」時と一致させることにより、周期的にこれを再生させる。祝祭の宗教的体験、すなわち聖なるものへの参与は、人間がくり返し神々の現在に生きることを可能にする。モーゼ以前のすべての宗教において、神話が重大な意味をもつ根拠はここにある。神話は神々の振舞い(gesta)を物語、これらの振舞いがすべての人間活動の手本である。宗教的人間は、その神々を模倣する度合いに応じて、起源の時、神話の時代に生きる。換言すれば、彼は俗なる持続から脱出して、「不動の」時、「永遠」への接続を見出すのである。(中略)
宗教的人間にとって、同一の神話的事件の再現は、あらゆる希望の中で最大のものである。なぜなら再現するたびごとに、またその生存を変じて神的典型に同化する可能性が得られるからである。原始ならびに古代社会の宗教的人間にとっては、模範的行為を永久に反復し、神々によって浄められた同一の神話的起源の時に永久に遭遇することは、何ら悲観的人生観の条件とはならない。反対にこの神聖にして真実なるものの根源へ「永久に回帰」することのみが、彼らの目から見れば、人間の存在を無と死から救うのである。
エリアーデ「聖と俗-宗教的なるものの本質について」98〜99頁)

脱神話化した現代から古代人の心性を想像することが難しい点があるが、現代でも「祭り」は未だ各地で行われている。何故大勢の大人が祭りの運営に関わるのか、という点から見た場合、古代の祭りと同様、祭りという非日常の時空間が参加者の日常生活を活性化するからといえるだろう。
文化人類学ターナーが「構造的な活動は、それに関わる人たちが定期的にコムニタスという再生力のある深淵に沈潜することなしには、たちまちに、無味乾燥となり機械的になってしまう(「儀礼の過程」193頁)」と指摘するとおり、日常の生活は、何らかの「祭り」(コムニタス)があるからこそ活力を保つことができる。

近代以前とそれ以後の違い

以上、「祭り(=神話の再現)」という形式であったからこそ、多くの大人が、子供を大人に変えるイベントに参画することができたという点をみた。
それでは、何故、古代のイニシエーションは消失したのか。また、古代のイニシエーションを現代にそのまま再現することはできないのか。以下、2点ほど近代以前と以後の大きな違いにふれたい。

神話という「迷信」からの解放

1点目は、「個人の自由」や「社会の進歩」という点に関係する。
前回もふれたが、古代社会は、神話という特定の世界観を共同体の皆が共有していた。皆が共有する世界に「入れてもらう」ためにイニシエーションが機能したのであるが、心理療法家の河合隼雄氏は、ここに「進歩」という概念が存在しないことを指摘する。

イニシエーション儀礼が成立するためには、その社会が完全な伝承社会であることを必要としている。古代社会においては、極言すれば、すべてのことは原初のとき(かのとき)に起こったのであり、この社会(世界)は既に出来あがったものとして存在し、後から生まれてきたものは、その世界へ「入れてもらう」ことが最も大切なことなのである。したがって、子どもが大人になるためには、その世界へと入る儀式としての、イニシエーション儀礼が決定的な意味をもつのである。つまり、そこには「進歩」という概念が存在せず、この世はできあがった世界、閉ざされた世界としてあり、子どもが大人になるときにそこに入れてもらうことになるのである。
河合隼雄「大人になることの難しさ」62〜63頁)

近代は、集団ではなく個人にこそ価値があり、物事は科学的に合理的に考えるべきであるという思想に基づき、多くの神話を否定した。この結果、イニシエーションが失われ、子どもが大人になることが難しい社会になった。
しかし、その反面、近代は、神話を「迷信」であると否定したことから、個々の共同体に囚われた人々を解放し、個人の自由や社会の進歩を図ることができたという側面がある。例えば、「母なる大地」という神話のもとで、当時、個人が土地を私的に所有し自由に処分できるなど考えられないだろう。

したがって、当然ながら、近代以前と以後は、社会の主要な価値観が異なる点に目を向けなければならない。古代のイニシエーションが古代社会の人々の社会適応(子どもから大人への精神的発達)を支援したとおり、現代に求められるイニシエーションもまた現代社会の人々の社会適応を支援するものである。
もし、現代の社会的規範に反する神話に基づきイニシーションを行ったならば、それは単なる反社会的な、または非社会的な行為を助長する洗脳イベントとなってしまう(その典型は、地下鉄サリン事件などのいわゆるオウム真理教事件だろう。オウム真理教では「イニシエーション」が行われていたという)。

グローバル化した世界

2点目は、人の住む世界がグローバル化した点に関連する。
「個人の自由」と「社会の進歩」は、典型的には、人の移動できる距離、取引ができる範囲の大小に表れる。古代社の社会で、移動距離や取引範囲は小さかったが、近代以降、著しく拡大し、世界各地の人々が相互に依存するようになった。
この点、「世界を読む力」を著した寺島実郎氏は、わずか百数十年前の世界と今の世界の違いを次のようにいう。

いま、あなたが百数十年前の日本にタイムスリップしたと想像してみてほしい。場所は東北のとある山村地帯。
あなたはそこで暮らすひとりの若い女性に着目する。毎朝、鶏の鳴く前から起きだして、川に、山に、畑に休む間もなく働く女性‐「とんでもない労働量だな」と、あなたは、きっと目をむくだろう。けれど、何ヶ月何年と観察するうちに、ひとつの疑問が脳裏に浮かんでくる。
「この人、この村から出たことがあるのだろうか?」
小さな村のなかで一日が完結する生活。それが、ほんの百数十年前までの、平均的な日本人の暮らし方であった。特に女性の場合は、せいぜい隣村に嫁ぐことが人生最大の大移動。当時の多くの日本人にとって、「世界」は、歩いて日帰りできるだけの範囲ー半径二〇キロメートルほどの広がりしかなかったのである。
翻って、百数十年後の現代日本を眺めてみる。いまでは、ひとりの人間が日帰りできる範囲は、自動車を使えば半径二〇〇キロメートル、飛行機を使えば一〇〇〇キロメートルを優に越えている。「アジア日帰り圏」などという言葉が出るぐらい、わたしたちの行動できる「世界」は、ぐんぐん広がっているように見える。
激変したのは交通手段ばかりではない。現代は、ヒト・モノ・カネ・技術・情報が、ボーダーレスに、つまり「境界なし」で交流する時代である。ラジオからテレビ、そしてインターネットへと、様々なメディアが登場・普及し、情報環境が劇的に変化して、わたしたちが認識できる「世界」は限りなく広がったように見える。「わたしは、いながらにして世界のすべてを知ることができる」と強弁する人がいたとしても不思議ではないだろう。
だが、私たちの「世界を知る力」は、単純に、交通手段や情報環境の発達と正比例して向上するものだろうか。残念ながら、答えは「否」である。
寺島実郎「世界を知る力」3〜5頁)

海外の信用不安が当然のように自国の信用不安に影響を及ぼすものとして報道されるように、人の住む世界は大きく広がった。
そして、人の住む世界は「地球」という一つの共同体である、このことを自覚させるものが二酸化炭素の排出による地球温暖化などの環境問題である。もはや一地域や一国で解決できる問題ではない。
例えば、このほか環境問題には以下のようなものがある(ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)」310〜324頁)。

  • 森林・湿地・珊瑚礁などの自然の棲息環境の破壊(森林破壊は過去の文明が崩壊した主要な原因)
  • 海産資源など野生の食糧源の減少(約20億人が海産資源に依存)、
  • 人類の存続を無償で支えていた生物の多様性の喪失(土壌の再生に寄与していたミミズがいなくなる)、
  • 急速な土壌の浸食(農地が減少していく)、
  • 石油等の化石燃料の枯渇、
  • 水資源の減少、
  • 農薬・冷却材・洗浄剤・プラスチック等にも含まれる毒性化学物(不妊の増加や大気汚染)、
  • 外来種がもたらす生態系の破壊

いずれも一地域一国でのみ対応することが難しいものであるが、このほか、地球という一つの共同体に属していることを自覚せざるを得ない典型例として、人類全体で消費する地球資源の量が増大し、限界に近づいていることから、これに対する制限をかけなければいけないという問題がある。

すなわち、アメリカ、西ヨーロッパ、日本の住民は、平均して、第三世界の住民の32倍の資源を消費していると言われるとおり、先進国の豊かな生活は地球上の資源を大量に消費することによって成立している。この先進国のような豊かな暮らしを、今、第三世界は願い、生活水準の向上を図っている。この結果、人類全体で消費する地球資源の量が増大しているわけだが、地球には、巨大な人口を有する第三世界の生活水準を先進国なみにするほどの資源を持っていない。
この点、「文明崩壊」を著したジャレド・ダイアモンドは次のようにいう。

近い将来、第三世界のすべての人々が、現在の先進国の水準には到達し得ないことを、また先進国がみずから現在の水準を手放そうとはしないことを悟ったとしたら、どういう事態が出来するだろう?世の中は妥協という土台の上に立った苦渋の選択に充ち満ちているが、これはわたしたちが迫られている最も過酷な妥協だと言っていい。
ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)」324頁)

これらの環境問題に象徴されるように、もはやどんな出来事も「対岸の火事」として眺めることができないほど相互依存し、地球という一つの共同体に住んでいるという前提から考えざるを得なくなった。人の住む世界は、半径十数キロという規模から地球という規模に著しく拡大したのである。

神話の機能不全

さて、問題は、いまなお力がある神話の多くが、この世界が拡大したという事実に対応していない点にある。その典型は、各地で多発する宗教上の違いに起因する紛争である。

神話は多くの場合、自分が属する集団が「正しい」「優れている」と考え、その他の集団は「間違っている」「劣っている」と考える傾向にある。共通の敵を設定し、又はスケープゴードをつくることによって集団内の利害調整が行われるということは現在でもよくあることである。

この点、ある神話を共有する集団と他の集団が物理的に離れていて、お互いにあまり影響を及ぼさないという社会であれば、その神話がどんな内容であれ紛争が起きるということも少なかった。
しかし、今や、世界は、様々な集団が入れ混じった一つの地球共同体である。このなかである集団が優れ、ある集団が劣っているという内容を含む神話は当然ながら人々の争いを生み出す。つまり、小さい地域内で他の集団と頻繁に混じり合うことがないゆえに機能した昔の神話が、広範囲な地域で他の集団と頻繁にまじりあう現代で機能不全を起こしているのである。

したがって、近代以前と近代以後では、人の住む世界が違うということを自覚しなければならない。宗教に限らず、人種、性別、民族など何らかの属性に着目し、ある集団が正しく、そして優れており、他の集団は間違っていて、劣っている、という内容を含む神話は、平穏な世の中を生み出すことができない。人の住む世界が「地球」にまで拡大した以上、地球上の生きとし生けるものすべてと調和を保つことができるような神話が必要なのである。

八方ふさがり

以上、近代以前と近代以後の違いを見た。
近代以前とそれ以後の社会の価値観は大きく異なり、ゆえに古代の多くのイニシエーションは失われた。そして、いま力ある神話の多くも争いの種になっている。それでは、いっそのこと神話やイニシエーションなど一切不要なのではないか、といっても、人はイニシエーションを必要としている。
この点、心理療法家の河合隼雄氏は、現代の子どもの「問題行動」の原因を次のようにいう。

制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。しかし、人間の内的体験としてのイニシエーションの必要性は無くなったわけではない。ここに現代人の生き方の問題が生じてくる。子どもが大人になるということは実に大変なことだ。だからこそ、古代においては社会をあげてそれに取り組み、それぞれの社会や集団が、それにふさわしいイニシエーションの儀礼や制度を確立してきた。それを無くしてしまったのだから、個人に対する負担は大変重くなった。言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった。
しかしながら、現代人の多くは近代の流れのなかにそのまま生きていて、イニシエーションの制度のみならず、イニシエーションそのものも「迷信」として否定してしまっている。意識的に拒否しても、人間存在に根ざすイニシエーションの必要性は、無意識の働きとして生じてくる。そのとき両者の乖離があまりに著しいと、いわゆる「問題行動」としてそれが露呈されてくる。かくて、心理療法家のもとに訪れてくる、あるいは連れて来られる人たちの多くが、イニシエーションの成就を目指しての仕事をわれわれと共にすることになる。
(「講座 心理療法1 心理療法とイニシエーション」9〜10頁)

多くの神話は失われ、いまある神話の多くも機能せず、かといって、既に個々人が自作自演しているとおり、イニシエーションを不要とすることもできない。それでは、このにっちもさっちもいかない状況をどうしたらいいのだろうか。
実はここに、神話学者ジョーゼフ・キャンベルに導かれ、忽然と柔道が現れてくるのである。

第41回 これからの地球からみた柔道(通過儀礼~神話と祭り〜)(3)

通過儀礼(イニシエーション)が子どもを大人に変えることができた理由は何か。
前回、「冒険」「友情」という視点からみたが、今回は最後に「神話」という視点からみていく。イニシエーションでは子どもたちにその部族の神話が伝えられ、これが大きな効果をもっているのであるが、それは何故だろうか。

物語の効能

「神話」とはある種の「物語」であるが、人は「物語」を得ることによって変わる。以下、心理療法家の河合隼雄氏が相談を受けた実例を見ながらみていきたい。子どもを失い、生きる気力を失った父親が「物語」を得たことによって元気を取り戻した例である。

私のところにビジネスマンの方が相談に来られました。彼には2人の男の子がいましたが、珍しい病気に罹って、相次いで2人とも死んでしまわれた。息子を次々と失ったショックから完全な抑うつ症になられて、仕事も手につかない。何もできない日々が続いていたのですが、あるお坊さんに会われて、お話を聴くようになりました。
お坊さんに「私と一緒に祈りましょう」と勧められ、一緒に仏さんに祈っておられた。お祈りをしているうちにそのお坊さんが、「あなたの前世は非常に悪くて、その償いをするために、あなたの2人の息子さんは、あなたの罪を背負って早く死んでいったことが判った。この世に残ったあなたはちゃんと生きて、これからの人生を息子さんの菩提を弔うことに注ぎなさい」と話された。
それがその方に通じて、元気を取り戻され、後に子どもさんもできました。

しかしながら、「これはいいことを聴いた」からといって、私が来談者に「判りましたよ。あなたの前世が悪いんです」と言っても、ほとんどの方が笑われるだけで納得しないでしょう。しかし、この前世の報いの物語は、この方にはピタッと合って、しかも結果はものすごくプラスのことが起こりました。「なぜ2人の息子は死んだのか」という問いに対して、「1人は珍しい病気で、2人目のお子さんの病気はよく死ぬことがあります」と説明しても納得できない。「私」にとっての何々という場合には、真実ではなく、その方の「物語」が重要なのではないか。
河合隼雄「物語の意義について」No.835(平成14年4月)号)
http://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_835.html

父親は二人の男子を喪い何もできない日々を送っていたが、「わが子は、自分の代わりに自分の罪を背負ったからこの世を去った。」という「物語」を得ることによって劇的に変わった。一体ここでは何が生じたのだろうか。
それは「物語」によって「意味」や「つながり」を得た点にある。

病気で死んだ、という科学的な説明は、父親にとって何ら意味はなかった。ところが「わが子は自分の前世の罪を背負った」という物語によって、父親は子どもの死に「意味」を見出した。

哲学者の中村雄二郎氏は、「神話の知の根源にあるものは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」(「哲学の現在」150頁)と指摘するが、まさしくこの父親は、子どもの死について「宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」をもっており、物語によってこれが満たされたからこそ、生きる気力を取り戻したのである。

別のいい方をすれば「つながり」である。
河合隼雄氏は、例えば、一本の木を例にあげて、それはそのまま見たら単なる木であるが、「お祖父さんが還暦に植えた木」という「物語」を得ると、木に親しみが湧いてくる。それは物語によって本人と木との間に「つながり」ができたからであるという。
先の例でいうと、病気で死んだ、という科学的説明は、父親と子どもの死の間に「つながり」を生み出さなかった。しかし、自分の前世の罪を背負った、という「物語」は、父親と子どもの死との間に「つながり」を生み出した。父親は、子どもの死をもたらしたこの世界と再び「つながり」を得たからこそ、この世界に復帰することができたのである。

この点、小説家の小川洋子氏は、物語を書く意味について次のようにいう。

いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、について何の解決にもならない。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。
その恐怖や悲しみを受け入れられるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。
人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言葉では表現できない。
それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながっていく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。
生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことにほかならない。こうした意味合いの解釈に触れた時、私は初めて、書くことの意味が何の無理もなくスムーズに心の中心へと染み込んでゆくのを感じました。
小川洋子河合隼雄「生きるとは、自分の物語をつくること」125〜127頁)

イニシエーションでは、神話によってこの「意味」と「つながり」が子どもに与えられた。これによって、子どもは、宇宙論的に濃密な意味をもった世界を得、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合することができた。だからこそ、子どもはイニシエーションによって「別人」のごとく大人に変化したのである。

もっとも、神話がもたらす「意味」と「つながり」の深さや広さを想像することが難しい。なぜなら、近代以前と近代以降の社会には大きな隔たりがあるからである。この隔たりについては改めてふれるが、以下、神話がもたらした近代以前の社会の世界観についてみていきたい。

近代以前の社会の世界観

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」

上記は画家ゴーギャンが問いた著名な絵画であるが、単純にいうと、古代社会や原始社会は、集団全員がこの問いに対する一つの回答、一つの世界観を共有していた。しかし、近代以降のヨーロッパ社会及びその文化を受け入れた社会では、啓蒙思想、科学技術、政教分離などにより、1つの神話を皆で共有することを止め、1人1人が自ら世界観を造りださざるを得ない社会となる。
この結果、近代以前、子どもは既にある世界観を受け入れれば足りたのであるが、近代以降、子どもは自ら世界観を作らなければならなくなった。この点に、子どもが大人になりにくい近代の特質があるのである。
河合隼雄氏は、親に暴力をふるう子どもが「どうして俺を生んだのか」と叫ぶとき、この近代の苦しみを見るという。

大人であるということは、その人が自分自身のよりどころとする世界観をもっている、ということである。一人前の人間として、自分なりの見方によって、世界を観ることができる。あるいは、自分という存在を、この世のなかにうまく入れこんでいる、あるいは位置づけているといってよい。もう少し深く考えると、自分という存在は、いったいどこから来て、どこへ行くのか、という問題に突きあたってくる。
家庭内暴力の子どもが、両親に向かって、「どうして俺を生んだのか」と怒鳴りつけるとき、それは無茶苦茶なことをいっているようだが、いったい人間はどこから来てどこへいくのかという根源的な問いを、両親に向かって発しているとも考えられるのである。衣食住に関して十分に与えさえすれば、それで親の役割は終わったと思っているのか、自分が生きてゆくのに必要な世界観の形成という点において、親は今まで何をしてくれたのか、と子どもたちは鋭く問いかけているのである。
仏教的世界観、あるいは民俗信仰などに基づく世界観を、ひとつの社会に属する人がすべて共有しているとき、この点についてはあまり問題はなかった。これらの世界観は、人々と世界の関係について述べてくれるものであった。しかし、近代になって自然科学が盛んとなるにつれて、自然科学的な知識は、これらの宗教的世界観が与えてくれる考えに一致しないところが多く、人々の心はだんだんと宗教的世界観から離れていった。しかし、実のところ、自然科学は強力なものであるが、人間がどこから来てどこへ行くのか、私はなぜこの世に存在しているのか、などという根源的な問いには答えてくれないのである。
河合隼雄「大人になることのむずかしさ」180頁)

それでは、古代社会や原始社会における神話の「意味」や「つながり」とはいったい何であろうか。近代との違いは具体的にどこにあるのだろうか。
それは、古代社会や原始社会の人々は、超自然者(神)とつながりをもっており、自分と自分を取り巻く世界は超自然者(神)の被造物であると実際に感じていた点にある。
宗教学者エリアーデ氏は次のようにいう。

・・イニシエーション的死と復活の経験は、新入者の基本的生存様式を根本的に変革するだけでなく、同時に彼に人間生活とこの世の聖性を、すなわちすべての宗教に共通な偉大な秘義を啓示するのである。その秘義とは、宇宙も、すべての生存様式もともに、神々または超人間的存在者の被造物である、ということである。この啓示は起源神話によって伝達される。事物はいかにして生ずるにいたったかを学ぶことによって、修練者は同時に、彼が「他者」(神)の被造物であり、かくかくの原初的事件の結果、一連の神話的できごとの帰結、要するに聖なる歴史の帰結であることを学ぶのである。
ミルチャ・エリアーデ「生と再生‐イニシエーションの宗教的意義」46頁)

神話は、人々に超自然者、神、何らかの偉大なものとのつながりを与えていたのである。例えば、主に狩猟により生活をしてきた北米のウティマラ族の予言者は、開墾を拒否して次のようにいう。

ウティマラ族出身のスモハラと名づけるインディアンの預言者は、大地を耕すことを拒否した。
彼は言った、「われらすべての母を農耕によって傷つけあるいは切り裂きあるいは掻きむしることは罪である」と。
彼はさらに付けくわえる。
「私に土地を耕せというのかね?私はいわばナイフをとって、それをわが母の懐に突き刺してよいだろうか?私が死んだとき、彼女はもはや私をそのなかに受け入れてはくれないだろう。
私に土を掘り返して石を取り除けろというのかね?私は母の肉を切り開いて、骨を取り除くようなことをしていいのだろうか?そんなことをすれば、私はもはや彼女の身体の中に入って、再び生まれてくることはできないだろう。
私に草を刈って乾草にし、それを売って白人のような金持になれというのかね?わが母の髪を切るなぞという大それたことが、どうして許されようか!」
ミルチャ・エリアーデ「聖と俗〜宗教的なるものの本質について〜」130頁)

この預言者と大地の間には、現代人からは想像がつかない濃密な「つながり」があることが分かるだろう。彼は実際に母なる大地(超越者)から生まれ、母なる大地とともに生きていることを実感している。彼にとって大地は実際に生きているのである。

エリアーデ氏は、彼らにとって「宇宙は<生き>て<話す>何物かである」し、「人間が宇宙のなかに認識する神聖性を、人間は自分自身の内に再発見する」という。

古代社会の宗教的人間にとって、世界はそれが神々によって創られたが故に現存する。すなわち世界の現存がすでに<何かを語ろうとしている>のである。世界は物言わぬものではなく、暗い透明なものでもない。それは決して目的も意味もない、生命なき何かではない。宗教的人間にとって、宇宙は<生き>て<話す>何物かである。世界が生きているということは、すでにその神聖性の一つの証拠である。なぜならそれは神々によって創られ、神々は人間に対して宇宙的生命のなかに身を示すからである。
このような根拠に基づいて、人間は或る文化段階以降みずからを小宇宙と見なしている。人間は神の創造の一部と成す。言い換えれば、人間が宇宙のなかに認識する神聖性を、人間は自分自身の内に再発見する。その結果、人間はその生命を宇宙の生命に相同なものとして定立する。すなわち、宇宙生命は神の作物として人間生存の模範となる。
ミルチャ・エリアーデ「聖と俗〜宗教的なるものの本質について〜」155頁)

近代の啓蒙思想は、神話を迷信であるとして一掃したが、この「迷信」を失ったことによって「宇宙は<生き>て<話す>何物か」ではなくなってしまった。

この点が鮮やかに分かるのは、米国政府が、先住民族の「生きて話す何物か」である土地を取り上げていったとき、先住民族が米国政府に話した内容である。
以下少々長くなるが、1852年ころ、米国政府からの土地の購入の申し出に対し、先住民族の首長チーフ・シアトルが返信した内容である。

ワシントンの大統領は土地を買いたいという言葉を送ってきた。しかし、あなたはどうして空を売ったり買ったりできるだろう。あるいは土地を。その考えはわれわれにとって奇妙なものだ。もしわれわれが大気の新鮮さを持たないからといって、あるいは水のきらめきを持たないからといって、それを金で買えるものだろうか。

この大地のどの一部分も私の部族にとっては神聖なものだ。きらきら光る松葉のどの一本も、どの砂浜も、暗い森のどの牧草地も、羽音をうならせているどの虫も。あらゆるものが私の部族の思い出と経験の中では尊いものだ。

われわれは血管に血が流れているのを知っているように、木々のなかに樹液が流れているのを知っている。われわれは大地の一部であり、大地はわれわれの一部だ。香り高い花々はわれわれの姉妹だ。クマ、シカ、偉大なワシ、彼らはわれわれの兄弟だ。岩山の頂き、草原の露、ポニーの体温、そして人間、みな同じ家族なのだ。

せせらぎや川に流れる輝かしい水は、ただの水ではなく、われわれの祖先の血だ。もしわれわれが自分の土地を売るとしたら、あなたがたはそのことをよく覚えておかなくてはならない。湖の水面に映るどんなぼんやりとした影も、私の部族のできごとや思い出を語っているのだ。かすかな水の音は私の父の音なのだ。
川はどれも私の兄弟だ。それらは私ののどの乾きを癒してくれる。それらはわれわれのカヌーを運び、われわれの子供に糧を与えてくれる。だからあなたがたは川に、あらゆる兄弟に与えるような親切さを施さなくてはならない。

われわれが自分の土地を売るとしても、大気はわれわれにとって貴重なものであることを、大気はそれが支えるあらゆる生命とその霊を共有していることを、忘れないでほしい。われわれの祖父にその最初の息を与えた風は、また彼の最後の息を受け取る。風はまたわれわれの子供たちにいのちの霊を与える。だから、われわれが自分たちの土地を売るとしたら、あなたがたはそれを特別なところ、神聖なところにしなくてはならない。人間がそこへ行って、草原の花々によってかぐわしいものになった風を味わえる場所に。

あなたがたは、われわれが自分の子供たちに教えたのと同じことを、あなたがたの子供たちに教えるだろうか。大地がわれわれの母だということを?大地に降りかかることは大地の息子たちみんなに降りかかることを。

われわれはこのことを知っている。大地は人間のものではなく、人間が大地のものだということを。あらゆる物事は、われわれすべてを結びつけている血と同じように、つながり合っている。人間は生命を自分で識ったわけではない。人間はそのなかでただ一本のより糸であるに過ぎない。人間が織り物に対してなにをしようと、それは自分自身への働きかけにほかならない。

よくわかっていることがひとつある。われわれの神はあなたがたの神だ。大地はその神にとって大事なものであり、大地を傷つければ、その造り主に対する侮辱を重ねることになる。

あなたがたの目的はわれわれにとってなぞだ。バッファローが全部殺されたらどういうことになるのか?野生の馬をみな飼い鳴らしたら?森の深い深い奥が大勢の人間の匂いでいっぱいになり、緑豊かな丘の景色が電話線で乱されたら、どうなると思うのか。茂みはどうなってしまうのか。消えてしまう!ワシはどこに住むのか。消えてしまうだろう!そして脚の早いポニーや狩りにさよならを告げるのはどういう気持ちか。命の終わりと生き残りの始まり。

最後のひとりとなったレッドマンが未開の原野といっしょにこの世から消え去り、彼の思い出といえば、大平原を渡る雲の影だけになってしまったとき、これらの海岸や森林はまだここにあるだろうか。私の同族の霊が少しでもここに残っているだろうか。

われわれはこの大地を愛する―生まれたばかりの赤ん坊が母親の乳房を愛するように。だから、われわれが自分たちの土地を売ったなら、われわれが愛してきたのと同じようにそれを愛してほしい。われわれがその面倒を見たのと同じように、面倒をみてほしい。あなたがたの心のなかに土地の思い出が、受け取ったときと同じまま保ってほしい。あらゆる子供たちのために、その地を保護し、愛してほしい―神がわれわれすべてを愛するように。

われわれが土地の一部であるように、あなたがたも土地の一部なのだ。大地はわれわれにとって貴重なものだ。それはまたあなたがたのためにも大事なものだ。われわれはひとつのことを知っている。神はひとりしかいない。どんな人間も、レッドマンであろうとホワイトマンであろうと、おたがいを切り離すことはできない。なんといっても、われわれはみな確かに兄弟なのだ。
(ジョーゼフ・キャンベル「神話の力」98〜101頁)

米国政府、開拓民、近代人にとって、宇宙(土地)は単なる資源である。金を生み出す道具でしかない。
しかし、チーフ・シアトルにとって、「宇宙は<生き>て<話す>何物か」であり、その地の人々は、宇宙のなかに神聖性を認識し、その認識した神聖性とおなじものが自分自身の中にあることを感じている。

宗教学者エリアーデはいう。

イニシエーションを通過した人は別人になる。それはこの世と生命に関する重大な啓示をうけたからである。
ミルチャ・エリアーデ「生と再生」15頁)

イニシエーションで子どもに伝えられた秘密とは、土、水、風、草、木、生きるもの、死せるもの、すべては神の恵みであり、そして、人もまた神の恵みであること。世界は神に満ちており、自らもその一部であるという福音だった。これによって子どもは「別人」のごとく「大人」に変わったのである。

次回

以上、「何故、イニシエーションは子どもを別人のごとく大人に変えることができるか」について、「冒険」「友情」「神話」という視点からみた。これが近代以前の社会における子どもを大人に変えるシステムである。
次回は、それでは近代はどうしたらいいのか、という点をみていきたい。近代以前の子どもを大人に変えるシステムが廃れ、近代は如何にこのシステムを再構築するか、という課題に直面しているが、ここから柔道の広大な可能性がみえてくるのである。

第40回 これからの地球からみた柔道(通過儀礼〜神話と祭り〜)(2)

前回、現代の課題とは、現代に即した通過儀礼(イニシエーション)を大人が協力して作り上げることにあるのではないか、もしこのように捉えると、柔道が歩むべき新たな道が見えてくるという点にふれた。

子どもを別人のごとく大人に変えることができた古代社会・原始社会のイニシエーション(通過儀礼・成人式)は、宗教学者エリアーデによると、概ね以下の4つの要素が含まれるという。

  • 「聖所」が用意される。ここに村の男たちが集まり神話を再現する営みが行われる。
  • 子どもたちを母親から引き離す。
  • 子どもたちは村から隔離されたキャンプで共同生活をし、部族の宗教的伝承などを教え込まれる。
  • 割礼、抜歯、入墨等のある種の手術を受け、また、徹夜や断食、ある種の食事制限など様々な制限や禁止に従う。

では、イニシエーションは、どのようなメカニズムで子どもを大人に変えることができたのだろうか。
以下、「冒険」「友情」「神話」という三つの視点からみていきたい。

「冒険」

何故、イニシエーションは子どもを「別人」の如く大人に変えることができるのか。
第1の理由は、未知の世界で出会う困難や試練を乗り越えたから、すなわち「冒険」をしたからである。以下、イニシエーションにおける冒険の特徴を4点あげる。

旅立ち

冒険の第1の特徴は、子どもは母親から引き離されることである。
「大人」になるためには母親から離れなければならない。例えば、劇的な例として、オーストラリアのムルリング族では、子どもが母親と一緒に地面に座っているとき、突然、男たちが走ってあらわれ、子どもを連れ去っていくという。

慣れ親しんだ世界を離れ、原始の森林に連れ去られた子どもは、これは自分はどうなるんだろう、という恐怖に打ち震えながら、冒険が始まったことを知るのである。

エリアーデは次のようにいう。

この祭儀の最初の部分の意味、新入者を母親から引き離すことの意味は、まったくあきらかである。われわれの考えるところでは、子供の世界との絶縁‐ときとしてまったく乱暴な断絶なのであり、この子供の世界とは、同時に母の、そして、女性の世界であり、無責任と幸福、無知と無性的な子供の状態なのである。
エリアーデ「生と再生」28〜29頁)

嘉納もまた、嘉納塾を運営し、知人の子どもを預かり起居を共にして教育を施したが、それは「親の膝下にあってはついあまやかされて自然的に困苦欠乏を味わい得ないという人々は、塾において修行する必要があると信じ」ていたからである。大人になるためには母親から離れなければならない。

異界

冒険の第2の特徴は、何処に行くか、という点に関係するものである。

文化人類学者ヴァン・ジェネップは、様々な儀礼において、(1)旧世界からの分離、(2)旧世界から新世界への移行、(3)新世界への合体という三つのプロセスが共通して存在することを見出した。

一方から他方に移る人は誰でも、しばらくの間は具体的にも、呪術‐宗教的にも、特殊の状態におかれる。すなわち彼は二つの世界の間をゆらゆらと揺れているのである。この状態こそ私が「移行」(marge)と呼ぶものであり、本書の一つの目的は、この理念的かつ具体的な移行が、ある社会的または呪術‐宗教的な状態から他への通過に伴うすべての儀式に、多かれ少なかれ明確な形態のもとに見いだされるということの証明にある。
(ヴァン・ジェネップ「通過儀礼」24頁)

そのうえで、人は、この「移行」の期間、「二つの世界の間をゆらゆらと揺れている」特殊の状態、すなわち「社会の外に位置」していることを見出した。

さて、通常の経済的、法的結びつきは、全見習い期間を通じて、大きく変化し、場合によっては全面的に断ち切られる。イニシエートされるものは、社会の外に位置し、社会は彼らに対して―特に彼らは実際に神聖で神的な性格を帯び、したがって神々がまさにそうであるように、不可触かつ危険な存在になっているのであるから―何の影響力をもたない
(ヴァン・ジェネップ「通過儀礼」124頁)。

つまり、イニシエーションにおいて、子どもは、人の俗なる世界のルールが及ばない、神や精霊、亡霊が住まう異界に旅立つのである。日本の神話でいうところの「黄泉の国」である。

現代の人々が、神や精霊、魔物などの存在を肌で感じることは稀だろう。しかし、古代社会や原始社会には、社会の外に存在する神や精霊、亡霊や魔物の住まう世界があった。何の困難も危険もない安全な地に旅立つのではない。イニシエーションにおいて、子どもはまさしく「黄泉の国」に行き、そこから戻ってくるのである。

試練

冒険の第3の特徴は、何らかの試練を乗り越えることである。
「人は一連のひどく困難で、危険でさえある状況を克服してはじめて、自己形成をなしとげる」(エリアーデ「生と再生」256頁)というとおり、困難を乗り越えることが精神的成長を促すことは明らかだろう。イニシエーションでは人為的に子どもたちに困難な何かを提供する。

ここで着目したい点は、多くのイニシエーションでは何らかの肉体的な苦痛や困難が用意されており、「肉体的試練は精神的目標を持つ」という点である。
*1

・・いろいろの肉体的試練にも精神的意義が含まれている。新入者は同時におとなの生活の責任をになう準備をさせられ、進んで精神生活に目覚めさせられるのである。試練や禁制にはかならず神話、ダンス、パントマイムなどを通しての教育が付随するからである。肉体的試練は精神的目標を持つ−若者を部族の文化に導き入れ、精神的価値を「自覚」させる。(エリアーデ「生と再生」41頁)。

すなわち、イニシエーションでは、歯を折る、割礼、断食、徹夜、殴打される、食物を手で食べてはならない、入墨を入れる、髪の毛を抜く、土の中に埋められる、蟻にかまれる、毒草によってむずがゆくされるなど、裸で生活するなど身体的につらい体験を伴うことが多い。すなわち、「身体」に対する刺激を通じて「精神」の発達を図ろうとするのである。

この点、教育学者の辻本雅史氏は、「身体」という「回路」を通じて、日常を超えた超越的かつ根源的な「いのち」に触れることができると古来から考えられてきたことを指摘する。

宗教的な修行は、洋の東西を問わず、あるいは宗教の種別を問わず、たいてい激しい苦行が課せられています。ほとんど生命の極限にいたるほどの激しい身体的な修行が、なぜ必要なのでしょうか。
宗教によって、その説明の論理や言い方などは違うでしょう。しかし、激しい身体訓練のうちに、言葉で語られる理論や説明では届かない、深い精神世界に潜入し悟入する確かな回路がある、そう確信されている点では、共通しているのではないでしょうか。
宗教は、ある種の超越的な世界に悟入することを目指しています。すなわち、宗教的な超越の世界は、「心で考える」いわば言語的な過程を越えて、身体を回路とすることによって、はじめて悟入できるということに違いありません。
「身体」は、実はもっとも身近な「自然」です。また身体は「いのち」の「在処」、というよりもむしろ「いのち」のはたらきそのものにほかなりません。
「いのち」は一つ一つ個体として簡潔して存在する、あるいは一つの「いのち」はその個体の「持ち物」である、といった考え方をするのは、たぶん「近代人」だけでしょう。「いのち」は、それを生みだした「大いなる自然」の一部を構成するのです。このように考える思想の方が、歴史的にはるかに普遍的だと思います。
この意味で、儒学が前提とする「天地自然」は、「大いなる自然」であり「大いなるいのち」ととらえられます。そして人の「いのち」としての身体は、「天地自然」の一部を成している存在です。
とすれば、身近な「自然」としてのこの「身体」を回路とすることによって、人は、日常を超えた超越的かつ根源的な「いのち」(生命)にふれることができる、そう考えてよいでしょう。
そのように考えれば、「いのち」の在処であるこの「身体」こそ、自分が超越的で根源的な世界につながる接点にほかならないのです。
(辻本雅史「教育を「江戸」から考える 学び・身体・メディア」145〜146頁)

本論考で何度もふれてきたが、この「身体」を通じて「精神」の発達を図るという考え・手法(徳育としての体育)は、嘉納治五郎のそれと同じである。
もっとも、この考え・手法は、実は、近年まで公に語られることはなかった。「脳から見た学習」を研究した経済協力開発機構(OECD)は、2010年、次のようにいう。

比較的最近のことだが、神経科学の発達によって、精神と肉体はまったく別物であるとするデカルト主義的な従来の考え方に異論が唱えられるになった。身体的な健康や体調が精神的能力に直接的な影響を及ぼすことは確かであり、その逆もまた同じである。したがって、教育現場では、身体的能力や精神的能力に直接影響を与える環境要因に加えて、身体的能力と精神的能力の相互関係も考慮する必要がある(OECD教育研究革新センター「脳からみた学習」95頁)。

ヨガが普及しているように、身体を通じて心を整えることは多くの人に馴染んだ考え方であるが、これまで公に教育の場に取り入れられることはなかったという。身体と精神の接点にある脳の研究によってはじめて可能となってきたのである。

死と再生

冒険の第4の特徴は、子どもは冒険を通じて単線的に成長して大人になったのではなく、いったん死んで、大人として再び生まれてきた、と自他とともに認識されることである。
子どもはいったん(象徴的に)死んで、白紙になったからこそ、別人のごとき大人になることができたのである。

イニシエーション的試練の大部分は、多かれ少なかれ、復活もしくは再生を伴う儀礼的死を意味する。あらゆるイニシエーションの中心のモミュメントは、修練者の死と、その生者の仲間への復帰を象徴する儀式によってあらわされる。しかし、修練者は新しい人間として生まれかわる。つまり別の存在様式を身につける。イニシエーションでの「死」は同時に幼年時代の終焉、未知と俗的状態の終止を意味する(エリアーデ「生と再生」9頁)。

すなわち、子どもは「大人」になるためにはいったん死ななければならなかった。そして死は「大人」という新しい存在形式の始まりであった。エリアーデは、この点(死に積極的意義を見出したこと)にイニシエーションの最も重要な点があるという。

要するに、具体的な死は結局はより高い状態への過渡の儀礼に同化されるということになるのだ。加入礼的な死は、すべての精神的再生、霊魂の残存、その不死性にとっての「必要欠くべからざるもの」(sine qua non)となる。加入礼と儀典と原理が人類史上に持ってきたもっとも重要な結果のひとつは、この儀礼的死の宗教的評価が、ついに人びとをして本当の死の恐怖を打ち克たしめ、人間存在の純粋に霊的な残存の可能性に対する信仰に導いた点である。
エリアーデ「生と再生」268頁)

ここでのポイントは、子どもは、死の恐怖を経験し、それを乗り越えることを通じて精神が発達したという点にある。
割礼や抜歯などある種の手術をする場合(神々によって実施されると聞かされている)はもちろん、既に、子どもは母親から引き離されたとき、死の恐怖で一杯になっている。少々長くなるが、エリアーデはその恐怖を次のように語る。

この祭儀の最初の部分の意味、新入者を母親から引き離すことの意味は、まったくあきらかである。われわれの考えるところでは、子供の世界との絶縁‐ときとしてまったく乱暴な断絶なのであり、この子供の世界とは、同時に母の、そして、女性の世界であり、無責任と幸福、無知と無性的な子供の状態なのである。

この絶縁は、母親にも修練者にも強い印象を与えるような方法で行われる。事実、ほとんどすべてのオーストラリアの部族の例では、母親はその息子が、おそろしい、神秘的な神、名は知らないが、その声はブル・ローラーの肝をつぶすような響きで聞くことができる神によって、殺され食べられてしまうのだと知らされる。彼女らはもちろん、神ややがて成人の形に、すなわち成人式儀礼を通過した成人として修練者を生き返らせるのだと保証されてはいる。しかしいずれにせよ、修練者は幼年者としては死に、母親たちは、子供たちがもはやイニシエーション以前の子供、つまり彼女の子供ではなくなるという不吉な予感を持つのである。少年が最後にキャンプに帰ってくるとき、母親は手でさわって、ほんとうに息子かどうかをたしかめる。あるオーストラリア部族では−他の部族もそうであるが−母親は、死者をいたむ如くに、受礼者をいたみ弔らう。

修練者にとって、その体験はさらに決定的なものである。彼らは始めて宗教的な畏敬と恐怖を感じる。なぜなら神々にとらえられ、殺されるだろうと、かねて聞かされているからである。彼らが子供だと見なされている限り、その部族の宗教生活には何の役割も果たし得ない。もし偶然に神秘的存在者に関することがらや、神話や伝説の切れはしを聞くことがあっても、それがどんなことがらなのか分からないのである。おそらく死者を見たことがあっても、それがどんなことがらなのかははっきり分からないのである。おそらく死者を見たこともあろうが、しかし死が自身に関連することがらだという意識はおこらないのである。彼らにとっては、それは外部の「ことがら」であって、他の人々、とくに老人だけにおこる神秘的事件なのである。しかし今や、突如として、その仕合わせな幼年の無意識状態から引き離される。そして死なねばならぬ、神々によって殺されることになるのだと聞かされるのだ。母親から引き離すという行為そのものが、彼らを死の予感で一杯にしてしまう―なぜなら彼らは未知のもの、しばしば覆面した人々にとらえられ、日頃なじんできた環境から遠くへ連れ去られ、地面の上へねかされ、小枝で覆われるからである。

初めて彼らは暗黒という未知の体験に直面する。それは彼らが以前に知っていた暗黒、自然現象としての夜‐夜はけっして全くの暗黒ではない、そこには星があり、月があり、火がある‐の暗黒ではなく、絶対の、おびえさせらるばかりの闇、神秘的存在者の満ちた、そして何よりもブル・ローラーの響きによって告げられる神の近づきに肝をつぶすような暗さなのだ。この暗黒、死、神々の接近という体験は、つねにこのイニシエーションを通じてくりかえされ、深められてゆく。しかし、この祭儀のまさしく最初の行事が、すでに死の体験を意味していることを強調しておく必要がある。というのは、修練者は突如として未知の世界に投げ込まれ、そこでの神々の現存が彼らにふき込まれた恐怖を通じて感じとられるからである。

母の住む世界は俗界である。修練者がいま入る世界は聖界である。この二つの世界の間には断絶があり、連続は絶たれている。俗界からある種の聖界に進むことは、死の体験を含意している。この過渡をなすものは別の生命を獲るために前の生命を絶たなければならない。ここにしめしている例では、修練者はより高い生命、聖へ参加が可能となる生命を手に入れるために、幼年時代、子供の存在の無責任性−すなわち、俗的存在−を死ななければならない。
エリアーデ「生と再生」28〜29頁)

古代社会・原始社会が提供した死と再生の機会(イニシエーション)は、近代になって失われた。しかし、人は、今でも、無意識的にイニシエーションを求めているという。例えば、深夜、バイクを暴走させる若者は何を求めているのか。
心理療法家の河合隼雄氏は、失われた「死と再生」の機会、すなわちイニシエーションを求めてのあがきなのではないと指摘するのである。

ある男性が、高校を出て浪人していたが、学業が手につかずぶらぶらしていると思っているうちに、暴走族に仲間入りしてしまった。単車を乗りまわしているその姿を見ていると、死ぬことを求めて努力しているのではないかと思えてくる。このような例ばかりではなく、青少年の犯罪や、あるいは家庭内暴力の例などに接していると、そこには常に「死」ということが誘因としてはたらいているように感じられる。
このような例をみると、そこに認められる無意識的な「死の希求」は、イニシエーションにおいて重要な「死と再生」の体験をもとめてのあがきではないかと思えてくる。もちろん、イニシエーション儀礼における「死と再生」はあくまで象徴的体験である。そのような象徴的体験をする方策も奪われてしまって、なおイニシエーションの必要性が迫ってくるとき、それは短絡的な死の希求へと走ってしまうのではないか、と思われる。当人はそんなことを意識しているわけではない。その暴発的行為が、イニシエーションを求めてのあがきと解釈されるのである。(「講座心理療法 心理療法とイニシエーション」4〜5頁)。

冒険のまとめ

以上、(1)母親から引き離されること、(2)この世ではない世界(異界)に旅立つこと、(3)肉体的な負荷を通じて精神の発達を図ること、そして、(4)死の恐怖に直面しそれを乗り越えること、というイニシエーションにおける冒険の特徴にふれた。古代社会・原始社会は、大人が協力して、子どもたち全員に対し(特に男子に対し)、このように手の込んだ冒険の機会を提供していたのである。

友情

何故、イニシエーションは子どもを「別人」のごとく大人に変えることができたか。
「冒険」に続く二つ目の理由は、「友情」である。

イニシエーションの間、子どもたちは村から隔離され、一定期間共同生活を送りながら同じ釜の飯を食べ、苦楽をともにする。

文化人類学者ヴィクタール・ターナーは、通過儀礼において、「各自の存在の根源に達し、その存在の根源において深い連帯性をもち、分かち合えるなにかを見出すような、人間変革の体験」(ヴィクター・W・ターナー儀礼の過程」192頁)があることを見出し、これを「コミュニタス」と命名した。

この点、文化人類学者の青木保氏は、コミュニタスをともにした仲間は「世間の常識では思いもおよばないくらいの慈愛で結びついている」と指摘する。

「リミナリティ」にある人間はこうした絶対服従を生きるが、それと同時に、「全き平等」がそこでの生活の原理になっている。この状態におかれた人びとが、独特の仲間意識を発生させるとは前にも述べたが、この意識は姉妹兄弟の間や同級生や同期入社といった人間どうしの間に見られる仲間意識とは、まったく異なるものである。この状態にある人びとが創りだすのは完全な共同社会であって、いかなる点においても、階層序列的な関係はない。みんな同じである。この共同性は、地位、年齢、性、宗派、親族組織の中の位置、などの「差異性」を超越するものであって、そこでは「個は全に、全は個に」という原理が貫かれている。

この平等原理も、基本的にタイのピク・ナワカの間に見られるものといってよいのだが、これも民族誌が数多い事例を提供してくれる。ザンビアのウンデブ人の成人式の場合、割礼を受けるためにそれまで「隠されていた」少年たちに、彼らの母親が「差し入れる」食物はすべて平等に全員に分けあたえられる。首長の息子であろうが貧乏小作人の子供であろうが、万事平等にとりあつかわれる。少年たちの隠される場所は村の外の繁みの中であるが、そこでは長老がすべて食事を平等に分けてあたえるものである。

ンデンブ社会では、成人するためにこうした隠遁所に隠されて修練を受ける少年たちの間には深い友情が育まれるといわれている。夜になると、小屋のたき火のまわりで四、五人ずつかたまって眠る。彼らの間で発達した特別の紐帯は、儀礼がおわってもからも崩れることなく続き、生涯にわたって無くなることはない。この友情関係は、ウブワブムとよばれるが、それは授乳を意味し、互いに世間の常識では思いもおよばないくらいの慈愛で結びついている。利害関係や法的規制によって妨げられることのない純粋な人間関係が、そこに生まれるのである。これはタイのピク・ナワカの「同期」修行者どうしの間でも多かれ少なかれ見られる現象である。

「リミナリティ」は、このように一般社会ではまず見られることのない、あるいは単に理想として考えられるにしかすぎない、特別な平等と友愛の関係を生み出し、発達させる。長老の権威への「絶対服従」といい、仲間どうしの間の純粋な「平等主義」といい、いずれも「日常的現実」の世界にあっては、理想であり観念でしかないと通常考えられているようなことが、ここでは実現する。日常生活において曖昧にしかありえないことに、はっきりとした輪郭をあたえて実現させる。それが、どっちつかづの「境界」において出現するのである。これは「真実である」というフレームによるメタ・コミュニケーションとして。(青木保儀礼の象徴性」288〜290頁)

では、このコミュニタスという全人格的な人間関係、そこで生まれる強い慈愛に満ちた友情、こういったものが人間の、子どもの精神的発達にどのような影響を及ぼすのだろうか。

この点、心理学者のエリクソンは、思春期・青年期の課題は、アイデンティティ、すなわち、「自分は何者であるのか。何者でありたいのか。どんなふうに生きていくのか。」にあるとした。
この課題に対応できない場合、時として、人はいったい自分は何者なのか、何をしたいのかが分からなくなり、対人関係がうまくいかなくなったり、無気力になったり、非社会的、反社会的行為にはしってしまう。

では、人はどのようにしてアイデンティティを形成するのだろうか。
友情によって、である。

児童心理学者の佐々木正美氏は、価値観を共有する友人との交流によってアイデンティティが形成される旨を指摘する。

自分はどういう人間に選ばれたか、自分はどういう友達を選んだかで、自分はどういう人間かということにもなります。そして、自分がやりたいことやなりたいものは、他者との関係で決まるのです。この時期に大切な他者は、先生や尊敬する人も重要になりますが、それ以上に大切なのは、話が合う、気持ちが合う友達が、数はかぎられてもかならず必要です。価値観を共有することができる友達です。そういう友達と親密に交流することが、アイデンティティを形成し、支えてくれるのです。友達の自分に対する評価や感想の蓄積が、自己像(アイデンティティ)の基盤になるのです
佐々木正美「完 子供へのまなざし」121頁)

人間というのは、だれもがみんな、生まれたら「私」になれるというわけではありません。「私」というものをしっかりもつためには、他者のイメージを自分のなかにたくさん取りこまなければ、「私」というものはできないのです。自分を知る人は、他者をよく知っている人のことです。他者がいるから自分があるということです。ですから、他者と深いまじわりをすることなしに、「私」というものはできないということです。

他者の深いまじわりをするには、自分のなかに取りこみたくなるようなイメージの人に、たくさん出会ってこなくてはいけないわけです。いいかえれば、自分のなかに他者のイメージを取りこむためには、自分にとって好ましい人のイメージからしか取りこめない、ということもわかってきました。

だから自分を苦しめるような人とか、不幸にするような人にいくら出会っても、自分というものはできあがってこないわけです。自分に喜びを与えてくれる人、自分を幸福にしてくれる人、自分にはできないことをしてくれる人に出会うと、その人のイメージを自分のなかに取りこむわけです。

そうすると、人の善意というものを信じることができる。人を信じることができるようになった子どもがはじめて、たくさんの人のイメージを安心して取り入れるようになり、自分を大切にしてくれる人を信じることができるのです。そして、人に大切にされる自分を信じることができる。このようにして「私」という自己概念ができ、自信ができてくるのです。
自分に自信ができてくると、他者への信頼もでき、人を好きになってきて、人と安心してまじわれるようになってくるのです。このようにして自分の世界がどんどん広がって、「私」というものが、どんどんしっかりできてくるわけです。(佐々木正美「完子どもへのまなざし」123〜124頁)

人は、価値観を共有する友人の目に映る自分の姿を受け入れることを通じて、自分とは何者か、何をすべきか、を知る。古代社会・原始社会の大人は、子どもたちに対し、日常の世界からは想像もつかない、慈愛に満ちた生涯にわたる友情を育む機会を創りだした。子どもは、この友情によって精神的発達を遂げ、大人になることができたのである。(続く)

*1:なお、イニシエーションにおける身体的苦痛は主に男性を対象としている。女性の場合、初潮があったとき村から隔離され、そこで性についてや部族の習慣などが教えられ、大人の女性として村に帰還するいうケースが多い。これは、女子の場合、自然に身体が大人に変化し、この身体の変化に伴って精神が変わるからであり、逆にいうと、男子にはそのような自然の身体的変化がないからこそ、手の込んだ儀式が必要となってくるという。

第39回 これからの地球からみた柔道(通過儀礼〜神話と祭り〜)(1)

本稿は、柔道の新しい仕組みとして、世界200カ国以上のネットワークを活用し、青少年が異なる地にある道場にいって、その地の人々と稽古と寝食を共にする機会を提案し、これまでその必要性や有益性について「柔道」「教育」「日本」という視点からみたが、今回は最後に「地球」という視点から、具体的には「通過儀礼」という視点からみていきたい。

幸福になる方法

ある門人は、嘉納について、「先生の理想郷は、全世界の人類が いずれも健やかに、各々そのところを得て幸福を味わいうる、仏教でいう極楽の如き世界であった。」と話したが(加藤仁平『嘉納治五郎』234頁)、人はどのようにしたら「各々そのところを得て幸福を味わいうる」ことができるのだろうか。

嘉納はいう。

道徳の最も高い域に進んだ人は、おのれの欲することをすれば、それが他人のためにも、社会のためにも国家のためにも人類のためにもなるのである。善いことをすれば満足する。よしや自己の肉体上の満足を図る場合があっても、それが最も高い精神上の満足を得る手段として必要であるからである。
これに反して、道徳上の最も低い位置にあるものは、自己の欲するところは事ごとに他人の利益を衝突し、社会国家人類の福祉と矛盾する。それゆえに、道徳の高い人は、他のためになること、すなわち徳行することが、自身の満足と一致する。道徳の低い人は、もし道徳を行うとか、正しいことをしようと思えば、絶えず苦痛を感ぜざるを得ぬのである。
この相違が修養の出発点である。(中略)
道徳は、畢竟、他人、社会、国家、人類の自己に対する要求に適応する道であるから、徳性を涵養するとか道徳的の修行をするとかいうことは、不十分なる適応から十分なる適応に進んでいく努力なのである。

嘉納の解は、一つのことを考え行うに際し、自分のためにも他人のためにもなるようになること、つまり、自他共栄を図ることができることである。
道徳の原理を探求した嘉納によると、人は共同生活をしている以上、その社会の存続と発展に適応しなければ、社会から排斥されてしまう。他方、単に他人の要求に従属するようになってしまっては満足を得られない。
したがって、人が「各々そのところを得て幸福を味わいうる」ためには、他のためになることが自分の満足と一致するようような、いわば、孔子のいう「心の欲する所に従って矩を踰えず」のような精神的な発達を遂げ、「他人、社会、国家、人類の自己に対する要求」にうまく適応していくことが必要となる。

経済開発協力機構(OECD)のプロジェク"DeSeCo"の言葉を借りれば、キー・コンピテンシーの核心であるreflectiveness(思慮深さ)を向上させることであり、自他共栄を図ることができる人やreflectiveが十分に向上した人を「大人」と表現するならば、「子ども」から「大人」へと成長することが、この世界で「そのところを得て幸福を味わいうる」道なのである。

「子ども」が「大人」になるシステム

この「子ども」が「大人」に成長するプロセスは個人の幸福に関わるだけではない。教育学者の門脇厚司氏が指摘するように、あらゆる社会的な問題はこのプロセス(「社会化」)の異変から生じる。

このプロセスの異変こそが、いじめ、不登校、退学、無気力、引きこもり、学卒無業者、テレビ依存、薬物依存、リストカット、自殺、売春、児童虐待など様々な問題の根本的な原因であり、逆に、もし、このプロセスを回復させることができれば、これらの問題はもとより、地球環境や貧困や社会的格差、食料問題、紛争などあらゆる問題を解決することができるのである(門脇厚司「社会力を育てる」)。

嘉納は、高等師範学校の校長として徳性の優れた教師の育成に努め、教育大学の設立に奔走、中国からの留学生の学校の校長として留学生を育成、オリンピック委員としてオリンピックの日本への導入を通じた体育の振興、講道館柔道の創設者として柔道を普及、研究者として道徳の原理の探求など様々なことを行ったが、これからはいずれも国内外の「子ども」を「大人」にするシステムの開発強化であったといえる。

これは、例えば、嘉納が中学生向けの教本で、柔道の修行すると自他共栄を図ることができる人(「大人」)になると話していることからも明らかだろう。

人間の本当の生活は、他人にも社会にも国家にも国外の人々にも、妨げをしないで自己の発達を図り、また自己の発達を図りながら、自分以外の人々に出来るだけ多くの利益を与えようとしなければならぬのである。それが人間の生活していくべき道である。そういうと人は、それならどうすれば、それらのことが衝突せず、どこから見ても都合のよい生活の仕方が出来るであろうかと問うであろう。私はそれは柔道という道を徹底的に修行すればよいと答える。

もっとも、嘉納が亡くなって約60年後の平成13年、講道館全日本柔道連盟は、柔道は人間教育として十分に機能していないのではないか、すなわち、柔道を一生懸命修行しても「大人」にならないのではないか、という危機意識を表明した(柔道ルネッサンス)。

本稿のテーマは、この柔道が人間教育として十分に機能するためにはどうしたらいいだろうか、という点にあるが、この問いは、柔道そのものの問題のほか、「子ども」を「大人」に変えるシステム全般への問いでもある。そこで、まず、「子ども」を「大人」に変えるシステムについてみていきたい。

通過儀礼(イニシエーション)

現代からは想像がつかないが、実は、近代以前の社会(古代社会)には「子ども」を「大人」に変える強力なシステムが存在したという。それが通過儀礼(initiation イニシエーション)である。

通過儀礼(initiation イニシエーション)は多義的な言葉であるが、ここでは、古代社会において「子ども」を「大人」にするために行われた儀礼(成人式、部族加入礼、年齢集団加入礼)をさす。詳細はのちほどふれるが、通過儀礼(イニシエーション)は、概ね、親元を離れ、森の中など日常の世界とは異なる世界にいき(分離)、その異界での共同生活のなかで何らかの試練を経験し(過渡)、帰還して「大人」の仲間入りを果たす(統合)。

宗教学者エリアーデによると、古代社会において、人は、イニシエーションによって「別人」になるほどの精神的な変革を遂げたという。

イニシエーションという語のいちばんひろい意味は、一個の儀礼と口頭教育(oral teachings)群をあらわすが、その目的は、加入せらる人間の宗教的・社会的地位を決定的に変更することである。哲学的に言うなら、イニシエーションは実存条件の根本的変革というに等しい。修練者(novice)はイニシエーションをうける以前に持っていたものとまったくちがったものを授けられる。きびしい試練をのり越えて、まったく「別人」となる。
いろいろのイニシエーションの範疇のなかで、成人式(Puberty Initiation)はとくに前近代人には大切なものと考えられていた。こうした「過渡の儀礼」(“transition rites”)はその部族の全少年に義務づけられている。おとなの仲間入りを許される権利を獲得するためには、少年は一連のイニシエーション的苦業を通過しなければならない。彼がその社会の責任あるメンバーとして認められるのは、これらの儀礼の力によるのであり、またその苦業が課すところの啓示に負うのである。
イニシエーションは志願者(candidate)を人間社会に、そして精神的・文化的価値の世界に導き入れる。彼はおとなの行動の型や、技術と慣例(制度)を習得するだけでなく、またその部族の聖なる神話と伝承、神々の名や、神々の働きについての物語を学ぶ。何よりも、彼はその部族と超自然者との間に、天地開闢のときの始めにあたって樹立された神秘的な関係について知らされるのである。(エリアーデ「生と再生」4〜5頁)。

このように古代社会では、「子ども」を「大人」に変えてしまう強力なシステムがあった。イニシエーションをクリアすることができれば、「子ども」は誰でも「大人」になることができたのである(もっとも、イニシエーションをクリアできないと殺されたりした)。

近代の「子ども」を「大人」にするシステム

近代の特色はこのイニシエーションを失った点にあるが、では、近代において、「子ども」を「大人」に変えるシステムとは何だろうか。

非常に大雑把にいうと、近代の特徴は、国家による教育制度「学校」をつくり、子どもに対し、大人になるための猶予期間、様々な試行錯誤ができる期間、「青年期」「モラトリアム期」を与えた点にあるといえる。

つまり、古代社会であれば、ある年齢になったら全員を強制的に「大人」にすることができたが、近代は社会が複雑化し、それも困難になった。そこで、学校にいく機会を皆に与え、大人になる時期を猶予するので(働かないでいい期間を付与する)、その猶予期間の間に各人がいろいろ試して、各自「自己責任」で大人になってください、ということになったのである。

もちろん、「学校」は「子ども」を「大人」に発達するよう支援しているが、経済開発協力機構のプロジェクトDeSeCoが指摘するように、現在の学校教育は、総じて、知識や情報処理能力などの認知的要素の開発に偏り、態度、感情、価値観、倫理、モチベーションといった非認知的要素の開発はおざなりになっている。つまり、「子ども」を「大人」にするシステムとしては十分に機能していない。

この点は、例えば、文部科学省が、日本の教育の本当の危機として、(1)学びに対する興味関心の希薄さ、(2)将来との関連性の見えないままでの学び、(3)受験終了後に剥落する「知」の危険をあげ、キャリア教育を推進していることからも明らかだろう。キャリア教育:文部科学省

個人的なイニシエーション

このように近代はイニシエーションを失い、それに代わる十分なシステムをもたない時代となった。この結果、充分な社会適応ができる人、そうではない人が生まれることになったが、それでは、イニシエーションのない時代において、人はどうやって大人になるのだろうか。

心理療法家の河合隼雄氏は「各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった。」という。

制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。しかし、人間の内的体験としてのイニシエーションの必要性は無くなったわけではない。ここに現代人の生き方の問題が生じてくる。子どもが大人になるということは実に大変なことだ。だからこそ、古代においては社会をあげてそれに取り組み、それぞれの社会や集団が、それにふさわしいイニシエーションの儀礼や制度を確立してきた。それを無くしてしまったのだから、個人に対する負担は大変重くなった。言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった。
しかしながら、現代人の多くは近代の流れのなかにそのまま生きていて、イニシエーションの制度のみならず、イニシエーションそのものも「迷信」として否定してしまっている。意識的に拒否していても、人間存在に根ざすイニシエーションの必要性は、無意識の働きとして生じてくる。そのとき両者の乖離があまりに著しいと、いわゆる「問題行動」としてそれが露呈されてくる。かくて、心理療法家のもとに訪れてくる、あるいは連れられて来られる人たちの多くが、イニシエーションの成就を目指しての仕事をわれわれと共にすることになる。(「講座心理療法1 心理療法とイニシエーション」9頁)

「子どもが大人になるということは実に大変なこと」であり、だからこそ、古代社会では「社会をあげてそれに取り組」んでいた。人の意識に変容をもたらすこと、さらにその変容がその人にも社会にも望ましい形にすることは非常に難しい。古代社会では、大人が協力して子どもの意識の変革をもたらさなければ、人はいつまでも社会に適応できない、ということが常識だったのである。

ところが、近代はこのイニシエーションを失った。しかし、社会に適応するために意識を変革する必要性は変わらない。したがって、結局、人は自己責任で意識の変革を行わなければならない。「自作自演」でイニシエーションを行わなければならなくなったのである。

例えば、河合隼雄氏は次のような例を挙げる。
ある大学1年生の学生が大学にいかなくなった。人前に出るのが何となく怖い、人の中にいると落ち着かない、不安になる、という状態で、父親からは学校にいけ、と叱責される。あるとき担任の先生に「退学したい」と相談したところ、勉強する気がないものはさっさとやめるべき、と言われた。もっと同情されるかと思ったところ冷たく言われ、退学しても働ける見込みもなかったことから自殺しようと決意する。しかし、ふとしたきっかけで死ぬことがばからしくなり、父親や担任の先生を見返してやろうと思い、大学に行き授業を受けるようになる。期末のテストを無事乗り切ったところ、いつのまにか、人前に出るのが怖い、とか人の中にいると不安になるという症状が軽減されていた。

この学生は一度は死のうと思い、しかしそこから立ち上がり勉強を頑張ったところ、対人恐怖症的な症状は消えていたのであるが、つまり、この学生は、死を感じるような試練を体験し、試練を乗り越えた結果、精神的な発達を遂げた。古代は制度として万人にこのような試練を課し精神的発達を支援していたが、近代は、この学生のようにたまたま個人的に経験するしかなくなったのである。

近代社会になって、制度としてのイニシエーションは消滅してしまった。しかしながら、個人の生き方をよく注意して観察してみると、現代人においても、個々人にとっては、大人になるためのイニシーエーション儀礼とでもいうべきことが、個人として生じていることがわかってきたのである。たとえば、既にあげた対人恐怖症の大学生の例について考えてみよう。彼が大学の担任教師に退学を賛成され、自殺しようと決意し、その後にやはり頑張ってみようと思い直す過程は、彼にとって個人としてのイニシエーション儀礼の体験をしたといえないだろうか。それは未開社会における修練者が体験する「実存条件の根本的変革」とまではいえないにしても、ある種の「死と再生」の体験をしたということができる。このことは、彼個人にとってのイニシエーションの儀式であったのである。河合隼雄「大人になることのむずかしさ」65頁)。

無意識的なイニシエーションへの欲求

それでは、このような個人的なイニシエーションは多くの人々にとって本当に必要なものなのだろうか。イニシエーションを経ずに大人になることはできないのだろうか。

河合隼雄氏は次のようにいう。

・・このように考えて人間の成長過程を見ていると、つまずきの必然性、あるいは必要性などということさえ主張したくなる。人間の成長につまづきはつきものだと考えるのである。確かに、外から見ていると、何のつまずきもなく成長してゆくように見える人がある。しかし、よく確かめてみると、それ相応のつまずきを体験しているものである。それが内面的な過程であったり、小出しに継続的に続いていたりして、他人の目に見えないだけのことである。私は職業上、多くの人の秘密の話を聞く機会が多いので、ますますこのように思わされるのである。他人から見て何の苦労もなく大人になっているように見える人でも、よく話をきくとそうではないことが多い。(河合隼雄「大人になることのむずかしさ」36頁)

ここでポイントになってくる点は、「意識的に拒否していても、人間存在に根ざすイニシエーションの必要性は、無意識の働きとして生じてくる。」ということ、つまり、人は無意識的にイニシエーションを求めているという点である。

文芸におけるイニシエーション

この点、エリアーデは、多くの人々がイニシエーションの構造をもつ小説や映画が消費していることはイニシエーションを無意識に求めていることの証左だという。

例えば、著名な映画では、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』(城を抜け出した王女アンが新聞記者ジョーとの切ないひと時を過ごしたのち、王女としての精神的成長をとげて帰還する)、スティーブン・キング原作の『スダンドバイミー』(死体探しの旅にでた少年たちが様々な冒険をして精神的に成長して帰還する)、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(少女千尋が異界に迷い込そこでの冒険を通じて成長し帰還する)がイニシエーションの構造をもっている。

・・昔話の主人公の試練や冒険がほとんど例外なく加入礼的用語で翻訳できることは否定できない。これこそが最も重要なもののように思えるのだ。昔話が今あるような形になったとき―これは特定のむずかしい問題だが―未開たると文明化されたとを問わず、人びとはよろこんで何回も何回もくりかえし聞いて飽きなかった。このことは加入礼的筋書きが、昔話のようにカモフラージュされてしまっても、人間の最深部の欲求に答える心理劇的表現であるからだといってもよい。だれでも何か危険な状況を体験し、またとないような試練に直面し、他界へ困難を排して進み入ろうと考えている―そして昔話を聞いたり読んだりすることで、想像の世界で、あるいは夢の世界で、これらを経験しようとするのだ。(エリアーデ「生と再生」252頁)

心理療法におけるイニシエーション

さらに、人の心の変容を取り扱う心理療法において、イニシエーションというモデルを用いていることもまた、人が無意識にイニシエーションを求めていることの証左であるという。

エリアーデは次のようにいうが、

ある見方からすると、精神分析は加入礼の非聖化形態とも見なしうる。つまり非聖化の世界へ近づこうとする加入礼である。しかし加入礼のもつ類型はここにも認められる。すなわち、心性の深層に下降すること、怪物とともに住むことは地下界への下降にひとしい。こうした下降に内包される真の危険は、例えば、伝承社会の典型的な試練と結びつけうる。うまくいった分析の結果は、人格の統合であるが、この心理過程は加入礼にともなう精神的変革に似なくもない(エリアーデ「生と再生」263頁)

心理療法家のユングヘンダーソンは、心理療法における心の変容とイニシエーションにおける心理の変容が類似している点を見出し、イニシエーションというモデルによって心の変容が理解できることを示した。
(橋本 朋広「心理療法におけるイニシエーション・モデルの検討」CiNii 論文 -  心理療法におけるイニシエーション・モデルの検討

例えば、これまで問題行動を起こしたことのないような子どもが突然万引きをした。本人に理由をきいても、本人は何とも言わない。このようなとき、ユング派の心理療法家の河合隼雄は「原因」ではなく「意味」を問うべきという。

つまり、「原因」を考えると、本人の意思が弱かったからだ、父親が仕事で多忙で不在がちだったからだ、母親の育て方が悪かった、学校の先生が悪かったのだ、など様々考えられるが、結局、悪者さがしになってしまい、問題は解決されない。
しかし、「万引きをした」ということはどういう「意味」を持つのか、と考えたらどうだろうか。
このとき役に立つのがイニシエーション・モデルである。つまり、子どもは、イニシエーションをもとめ、その欲求が満たされないため「問題行動」として現れたのではないか、大人になるための精神的成長のため、日常の世界から抜け出し、試練を経験しようとして「万引き」したのではないか、という理解である。このように捉えると、はるかに建設的に考えることができる。

「異常」あるいは「病的」などというレッテルを容易に貼られそうな行動に対して、それがイニシエーションという人間の成長において必要な行為の一部として解釈されるとき、それは「意味」あるものとして本人にも、それを取り巻く人たちにも受けとめられる。それは時に長い道程であるにしても、イニシエーションの段階として知られている、分離・過渡・統合の過程を踏みしめてゆくことになる。(「講座心理療法1 心理療法とイニシエーション」10頁)

もちろん、このようなイニシエーション・モデルだけで問題行動がすべて説明され、解決されるわけではないが(実際、河合隼雄氏も、分離・過渡・統合というイニシエーションのプロセスにおいて、過渡において過渡で終わるという覚悟が必要と指摘する)、イニシエーションというモデルがカウンセリングで有益であることは、人が無意識的にイニシエーションを求めていることを表しているように思われる。

現代の課題

以上、非常におおざっぱであるが、古代社会には「子ども」を「大人」に変える強力なシステム「イニシエーション(通過儀礼」)があったこと、現代の問題は「子ども」を「大人」に変えるシステムの機能不全に起因すること、そして、人は今なおイニシエーションを求めていることをみた。

とすれば、である。
現代の課題とは、現代という時代に即した形でイニシエーションを再び創り出だすことにあるのではないだろうか。つまり、嘉納が求めた「各々そのところを得て幸福を味わいうる、仏教でいう極楽の如き世界」をもたらすためには、各人が自前で自作自演しなくてはならなくなったイニシエーションを、現代に即した形で、再び社会が、大人が協力して作りだし、「子ども」たちに提供することではないだろうか。実は、このような視点から柔道をみると、広大な視野が開かれてくるのである。

もっとも、この点に後ほどふれることにし、まず、そもそもイニシエーションとは何か、どのようにして人を「別人」のように変えるのか、そして、何故、近代はそれを失ったのか、を見ていきたい。近代はそれ相当の理由があってイニシエーションを失ったのである。