2010-01-01から1年間の記事一覧

第26回 「かわいい子には旅をさせよ。」と「他人の飯を食う。」

1回から25回までは、柔道は何処に行こうとしていたのか、という点をみてきた。今回からは、新しい仕組みを提案し、これから何処に行くか、という点をみていく。結論から先にいうと、これから本稿で検討する仕組みは、 異なる地にある道場にいって、その地の…

第一部 目次(全44回)

このブログはNPO法人judo3.0のウエブサイトに移行しました。 2010年8月7日(第1回)から2013年8月31日(第43回)まで、約3年にわたって本ブログで想い描いた未来の柔道教育につきましては、2015年1月から、実際にカタチにするべく活動を始めました。 この活動…

第25回 特殊の人の柔道から国民の柔道へ。

本稿は、柔道ルネッサンスが提起する問題から始まり、第1回から今回まで、以下のような枠組のもとで嘉納の柔道と教育をみてきた。 柔道は、本来「人間教育」を目的として創られたにも関わらず、「昨今の柔道」は「勝ち負けのみに拘泥しがち」であり、「人間…

第24回 生き方の基本は伝統のかかわりの中で見出すべき2

前回、日本の文化や伝統に内在する普遍的な生き方を見出すため、「道」という日本の思想の基礎的な概念に内在すると思われる次の三つのコンセプトにふれた。 個々の領域の究極が人や宇宙の究極につながる。 「型」という身体を回路として精神や心につながる…

第23回生き方の基本は、伝統とのかかわりの中で見出すべき1

日本の文化・伝統にふれる理由 今回は日本の文化・伝統についてみていくが、その前に、何故、この点を考察するか、その意義をまず明らかにしておきたい。本稿は、柔道の教育としてポテンシャルを最大化することを目的とし、「短期的目標」と「長期的目標」の…

第22回 武術という根を断てば、勝つことを目的としたスポーツとなる

嘉納は、柔道と競技やスポーツは異なるという認識をもっていた。また、柔道は「スポーツ化」することによってその教育としての力を失ったという理解もある。そこで今回は、柔道とスポーツの違いについて、3点ほどみていきたい。なお、ここでいう「スポーツ」…

第21回 ズルズルと、便法にしたスポーツ論に溺れてしまった。

引き続き、長期的な目標と短期的な目標のバランスの問題についてみていきたい。もし、柔道につき、短期的な目標(試合の勝利)のみが追求され、長期的な目標(人間教育)がおろそかになっていたとすれば、それは何故だろうか。以下三つほど挙げてみる。 成果…

第20回 道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値がある。

前回まで、 嘉納はどのような人を育成しようとしたのか。 どのような方法で育成しようとしたのか。 誰を育成しようとしたのか。 についてみてきた。そこで、再び、第一回のテーマ「柔道はよい子を育てるか。」に戻って、現代の柔道の問題についてみていきた…

第19回 中国人留学生の教育事業(作成中)

※現在作成中これまで「嘉納はどのような人間を育成しようとしたのか。」と「嘉納はどのような方法で育成しようとしたのか。」という点をみてきた。今回は、「嘉納は誰を育成しようとしたのか。」という点に関し、特に、嘉納が数え年37歳から42歳までの間にお…

第18回 男一匹、かけがえのないこの生涯をささげて悔いなきもの。

「先生の理想郷は、全世界の人類がいずれも健やかに、各々そのところを得て幸福を味わいうる、仏教でいう極楽の如き世界であった。」と評されるが、嘉納は、第12回でみたように、自らの理想の実現のため、主に三つの方法を採った。第一が、「精力善用・自他…

第17回 精力善用国民体育

徳育としての体育に関し、最後に、嘉納が、昭和2年(1927年)、数え年68歳のときに考案した精力善用国民体育についてみていきたい。 新しい体育の模索 嘉納は、野球のほか様々な体育を自ら試し、また常日頃新しい体育を考えていたが、嘉納がどのような体育を…

第16回 欧米のオリンピックを世界のオリンピックにしたいと思った。

引き続き徳育としての体育をみていきたい。嘉納は、1.柔道を創り、2.日本にオリンピックをもたらし、3.精力善用国民体育を創った。このほか、高等師範学校の体育を盛んにしたり、体育科を作って体育教師の育成も行っているが、今回は、オリンピックについ…

第15回 米国イリノイ州ネーパーヴィルの奇蹟

前回は、運動の脳に対する効用にふれ、徳育としての体育の有効性の実証されつつあることを述べたが、今回は、ネーパーヴィルの奇蹟と評される、1999年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)において理科が世界1位、数学が世界6位になった、米国イリノイ州のネ…

第14回 SPARK

道徳的人間を育成する方法としての体育、いわば、体を鍛えて心を鍛えるという方法は、近年、脳の研究が進むにつれて、改めてその意義が明らかになってきている。今回は、この脳の研究をみていきたい。 『脳を鍛えるには運動しかない!』 人生において成功す…

第13回 道徳は独立の課目としては教えない。

嘉納は、何故、道徳的人間を育成する方法として体育を選んだのか。第13回は、この嘉納の方法論を三つの点からみていく。先に結論を言うと、第一は、体育は生徒と教師の相互コミュニケーションの機会が多いということ、第二に、徳育としての体育は英国で既に…

第12回 本当に耳にタコができるぐらいお話をされていました。

さて、本稿のテーマは「柔道が人間教育として効果を発揮するためにはどうしたらいいか。」という点にあるが、これまで「嘉納はどのような人間をつくろうとしているのか。」という点についてみてきた(第1回参照)。 嘉納がつくろうとした人間像を語るにはま…

第11回 嘉納塾3 おのれが十のものを与えて三か四をとるようにしろ

最後に、嘉納数え年54歳のときの嘉納塾の同窓会における講話である(嘉納・体系5巻52〜57頁)。 自分が今日この席で話したいと思うことはまことにたくさんあるのであるが、今日はその一つとして、塾が創立以来一貫してきた精神が今日の教育上ますます必要で…

第10回 嘉納塾2 克己の力を養う。

引き続き、嘉納塾についてみていく。「精力善用・自他共栄」を世に唱える以前であるが、嘉納が、嘉納塾の同窓会において、その教育方針などについて語った講話があることから、今回及び次回はその講話をみていく。以下、嘉納が52歳のときの講話である(嘉納…

第9回 嘉納塾1 わがまま勝手を許した家庭の子供は一身を誤る。

前回まで「嘉納はどのような人をつくとうとしたのか。」という点について不完全ながらも一応ふれてきた。そこで次は、精力善用・自他共栄という能力・態度を身につけた人をつくるため、「嘉納はどのような方法でつくとうしたのか。」という点をみていくが、…

第8回 おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養う。

第7回では「自他共栄」を便宜上3つに分けてその内容をみてみたが、第8回では「嘉納はどのような人をつくろうとしていたのいか。」という視点から、改めて「自他共栄」をみていきたい。まず前回ふれたように、自他共栄に基づく考え方や行動とは、「他人よかれ…

第7回 心の欲するところに従い、矩を踰えず。

第7回は、「自他共栄」であるが、このコンセプトは様々な場面で使用されることから、便宜上、三つに分けてみていく。 第1は、紛争解決としての「自他共栄」、第2には、道徳の説明原理としての「自他共栄」、第3は、修身の指針としての「自他共栄」である。ま…

第6回 なんとかなるわい。

「精力善用」というコンセプトは、武術から教育、仕事、衣食住、経営、読書など、ありとあらゆる場面に妥当する原理であるが、精神状態にも妥当する。つまり、如何にうまく行うか、というdoingの場面だけではなく、どんな態度、スタンスで日々を過ごすか、と…

第5回 概念の技化

「嘉納はどのような人間をつくろうとしていたのか。」 嘉納の答えは、「精力」を「善用」し、「自他」の「共栄」を図る人間であるが、第5回では、この「精力善用」についてみていく。「精力善用」とは、善を目的として心身の力を最も有効に使用することであ…

第4回 将来臍を噛んでも取返しのつかぬようなことに立至る。

精力善用・自他共栄 嘉納はいう。 自分は今までに随分いろいろの書物を読んだが、どうしても人生の真義が明確に分からなかった。そこで一時学問は全く棚に上げてしまって、実社会の研究に没頭した。そして終に社会百般のことは、皆社会生活存続発展の原理と…

第3回 ただ勝敗を主眼とする武技は維新後の時世に適せず。

第3回では、嘉納が柔道を創った目的について触れておきたい。結論を先にいうと、教育を目的とした創ったのである。 嘉納が柔術を習った理由 まず、そもそも何故、嘉納は「柔術」を習ったのか。 自分が柔術を学び、また講道館を創設するに至った動機について…

第2回 三つ児の魂百まで

嘉納の印象 数え年75歳の嘉納の印象について、インタビューをした東京文理科大学講師エイ・エフ・タマス氏は次のように話した。 嘉納師範との初対面ほどびっくりしたことは、今までにかつてなかった。貴族院議員とはいえ、柔道の源泉講道館の創設者で、その…

第1回 柔道は「良い子」を育てるか。

このブログでは、これから何回かかけて、柔道を創った嘉納治五郎師範(以下敬称略します。)を辿りながら、これからの柔道と教育について一つの試案を提示してみたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。 テーマ 本稿は教育としての柔道につい…