第38回 これからの日本からみた柔道(3)

これからの日本が繁栄するためにはどうしたらいいか。嘉納の答えは二つあった。

一つ目は、日本国民に対する教育、特に体育である。

国の盛衰は、国民の精神が充実しているか否かによる。
国民の精神の充実度は国民の体力に大きく関係する。
そして、国民の体力は国民一人ひとり及び関係する機関・団体等が体育(スポーツ)に関して、その重要性をどのように認識しているかによる。
出典:「日本体育協会の創立とストックホルムオリンピック大会予選会開催に関する趣意書」

二つ目は、世界中の人々に、日本を理解してもらい、親しみをもってもらい、日本の味方になってもらうこと、すなわち、「ほんとうのカギは何人の敵を殺したかではない。本当のカギはどれだけ味方を増やせたかだ。」(ニュート・ギングリッチ元下院議長)というソフトパワーである。

この一つ目と二つ目を実現する具体的な方法が柔道であった。

それでは、これからの日本国の繁栄のため、柔道をどのように活用したらいいか。
それは、松前氏が指摘したように、「世界的規模」の「交流の場」、すなわち「世界の若者たちが柔道を通じて友情の絆をつくり、お互いの人柄を理解し、国の文化と国民性を理解していく」場を創ることであり、
本稿で検討している次のような仕組みを実施することである。

  • 異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をすること、
  • そして、可能であれば道場の関係者宅にホームステイをさせていただき、一定期間その地で生活すること、

以上が第36回、第37回でみた内容であるが、今回は改めて日本の戦略として整理していきたい。

「プラットーフォーム」

国家戦略として考えるうえでのポイントは、柔道とは「プラットフォーム」であるという認識を持つことにある。以下、平野敦士カール氏及びアンドレイ・ハギウ氏の書著『プラットフォーム戦略』(東洋経済新報社)を参考にしてみていく。

プラットフォームの典型は、ショッピングモールである。
ショッピングモールは、多くの小売店を一つの「場」に集めることによって多くの消費者を集め、小売店と消費者が出会う「場」を創っている。人気のあるショッピングモールであれば、消費者は満足するモノが購入でき、小売店は売上があがり、さらに、ショッピングモールを運営する組織も豊かになる。

このように「プラットフォーム」とは二つ以上のグループを結びつける「場」をいい、「プラットフォーム」戦略とは、そのような場を創ることによってグループ単独では得られない価値を創りだす戦略をいう。

おそらく、国家戦略として著名なプラットフォームは米国の大学だろう。
米国の大学は、米国内のみならず、世界各国から学生が集まり、これらの学生たちが相互に結びつく「場」になっており、このプラットフォームに参加した学生や教師は、一人で勉強したり研究したりしたのでは到底得ることのできない価値を得る。

そして、このプラットフォームを運営する米国は、コリン・パウエル国務長官が「アメリカ国内で教育を受けている将来の世界の指導者との友情ほど、アメリカにとって価値の高いものは思いつかない」(ジョゼフ・ナイ「ソフトパワー」81頁)と指摘するとおり、強力なソフトパワーを得るのである。

このように「プラットフォーム」戦略とは、お互いを必要としてるようなグループが出会う「場」をつくり、出会った当事者は価値を得るのみならず、その「場」を創ったプラットフォーム運営組織もまた価値を得るという構造になっている。

この点、日本の国家戦略としても「プラットフォーム」戦略は立案されている。
経済財政諮問会議の「構造変化と日本経済」専門調査会「構造変化と日本経済」専門調査会:内閣府 経済財政諮問会議は、平成20年7月、次のような戦略を立案した。

  • 人口が減少し、かつ資源に乏しいわが国が生きる道は、知的創造の拠点となることにある。
  • 知的創造の拠点になるためには、「プラットフォーム」を創らなければならない。
  • ここでいう「プラットフォーム」とは、「国境を越えて、新しい発想や繇新の技術、高度な人材が集まり、知的イノベーションが行われ、常に繇先端の付加価値が生み出される場である。内に向かっても外に向かっても開かれており、人材・資金・知識・情報が内から外へ、外から内へと自由かつダイナミックに移動するなかで、成長の源泉が生まれてくる場」である。
  • このような「プラットフォーム」を創るためには、人材が適材適所で活かされる仕組みや、成長分野に円滑に資金が

流れる仕組み、ベンチャー企業が活発に参入できる仕組みが必要であるし、公正なルールに基づく市場も不可欠である。

つまり、「国境を越えて、・・高度な人材が集まり」結びつくことによって、それぞれが単独で活動したのでは不可能な産業を創りだすことを企図しており、そのような「場」を日本が創ることによって自らが成長する、という戦略を立案したのである。

プラットフォームとしての柔道

このプラットフォームという視点からみると、柔道とは、心技体の様々な点で成長したい人とそれを応援する人を結びつけ、単独で学習したのでは得られない教育上の価値を創りだす「プラットフォーム」である。

さらに、もし多くの人に支持されるようなプラットフォームを創ることができれば、プラットフォームを創った日本は大きな価値を得る。したがって、柔道を通じた日本の国家戦略とは、多くの人々が柔道を通じて結びつく「プラットフォーム」をいかにして創りあげるか、というプラットフォーム戦略にあると思われる。

例えば、前回ふれた第1回国際柔道連盟コーチ・審判セミナーをもとに以下みてみよう。昭和56年4月28日から10日間、日本の東海大学にて開催された国際柔道連盟コーチ・審判セミナーには、40か国、約100名の指導者が集まり、寝食をともにしながら、審判技術や教授方法などについて研修が行われた。

このセミナーに参加した「女子柔道の母」ラスティ・カノコギ氏は、「この催しには政治体制の違いを乗り越えて世界中から大勢の人が集まり、学び、交歓し、永遠の友情の絆を結ぶ場になったのでありました。この行事は松前氏の友好と平和への信念を行動によって示したものでした。また松前氏の指導による格闘技というものが、いかに平和を創造し得るかということを知りました。」という。

これは、まさしく(「柔道」というプラットフォームの中に)「国際柔道連盟コーチ・審判セミナー」という「プラットフォーム」が各国の柔道指導者を結びつけ、その結果、柔道とは、単なるゲームではなく「平和を創造し得る」ものという学び、すなわち、単独では生み出すことができない価値を生み出したことにほかならない。そして、このプラットフォームを運営した日本は、世界各国の指導者とのつながりというソフトパワーを得たのである。

参加者が得る価値

このようにプラットフォームとは、二つ以上のグループがつながり、それによって付加価値を生み出すことを本質とする。それでは、本稿で提案する仕組みである「異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をする」というプラットフォームはどのような付加価値を生み出すのだろうか。

まず、交流に参加した者に対する付加価値、教育上の効果があるが、この点はなぜこの仕組みが必要か、という点から何度もみた(第27回〜第35回)
様々な価値観を持った人々との「他人の飯を食う・同じ釜の飯を食う」経験、「かわいい子には旅をさせよ」という格言に含まれる旅・冒険の経験、このような経験が本人を大きく成長させることは明らかだろう(第27回)。
また、柔道という視点から見た場合、例えば、第1回国際柔道連盟コーチ・審判セミナーに参加したラスティ・カノコギ氏が「格闘技というものが、いかに平和を創造し得るかということを知りました。」というように、「精力善用・自他共栄」をより深く学ぶことができるのである(第28回)。
同様に、教育という視点からみても、次のとおり、今、求められているのである(第29回〜第35回)。

  • 「変化」「複雑」「相互依存」というこれからの世界で、人と社会が豊かになるためには、知識や情報処理などの認知的要素の教育だけではなく、「コラボレーション」や「イノベーション」などに不可欠な態度、価値観、モチベーションなどの非認知的要素を開発する教育が必要がある。
  • しかし、「空っぽの容器」に情報を一方的に流し込むかのような現在の教育はこの要請に対応できない。
  • 認知的要素、非認知的要素を開発する方法として、二つのポイントがある。
  • 一つは人との「つながり」である。例えば、教育学者の門脇厚司氏は、一人前の大人になれない子どもが増えている原因として、昔と比較して、子どもと大人が交流する機会が激減したことをあげる。人とのつながりこそ、非認知的要素を開発する方法である。
  • もう一つは「運動」である。運動が抗うつ剤と同じ効果をもっているなど、最近の研究(特に脳)によって、「心」(≒非認知的要素)と「身体」の結びつきがようやく実証されてきた。古来から言われていたように、身体を鍛えることによって精神や心を鍛えることができるのである。
  • 「つながり」と「運動」の双方をもたらす柔道(本稿で提案する仕組みを持つ柔道)は、これからの人々に切に求められる教育方法である。

道場やクラブが得る価値

さて、それでは、それを受け入れる道場やクラブにはどのような付加価値が生まれるだろうか。本稿は第27回で次のようにのべたが、もう少し詳細にみていきたい。

実際、地域にある道場は、コミュニティを形成し、子どもの教育を担ってきたが、ここでのポイントは、本稿で検討している仕組みを取り入れると、柔道コミュニティは、より豊かで、より教育効果の高いコミュニティになるのではないか、という点にある。(中略)
そして、地域の道場が、大人が協力して子どもを育てる多様性のあるコミュニティとなり、物質的にも精神的にも豊かな人間を育てる空間であると認知されれば、より多くの人が柔道を学ぶことになるだろう。
第27回 新しい仕組み内容と可能性 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

本稿の企図するところは、プラットフォームを創ることによって道場の教育効果を高める点にあるが、その結果は、社会的評価の向上や入門者の増加、収益の向上などに表れる。

近年、柔道を習いたいという人が減少し、さらに柔道の指導者も減少しているという。それでは、多くの人が先を競って柔道を習いたいとして道場の門をたたき、また、子どもたちの「なりたい職業ランキング」第一位に柔道の先生が挙がるためにはどうしたらいいだろうか。

嘉納はいう。

かくして柔道が技術ばかりでなく、一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば、今日のようにある年齢であっても特にそういうことに趣味をもっているものばかりではなく、今いっそう一般的に行われるようになるに相違ない。遂には特殊の人の柔道でなく国民の柔道となることが出来よう。(嘉納・著作集2巻275頁)

「一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば」とはどういう意味だろうか。
思うに、忍耐や礼儀正しさが身につくとか、粗暴な子どもが真面目になるなど従来から言われる効果だけではなく、高校や大学を選択する場合と同じように、例えば「ここにいけば将来いい仕事につける」とか「ここにいけば様々な分野で活躍できる」と思われる存在になること、要は「いい教育をわが子に提供したい」と願う親の期待に応えるようなプログラムを提供することではないだろうか。

この点、他の道場にいって稽古と寝食を共にするという機会が、人の可能性を広げることは明らかだろう。もちろんそれだけで足りるわけではないが、昇段制度や選手権大会という今の仕組みをそのまま運用しても現状を打開できるとは考えにくい。

現在、一般的な親の視点からすると、柔道はサッカーや野球と同じスポーツクラブとして捉えられている。しかし、嘉納の視点からすると、スポーツクラブとしての側面は柔道の一部であって全部ではない。

道場や柔道クラブが単独で活動する組織ではなく、全世界的に人を積極的に交換しあう組織になったとき、道場は、単なる「スポーツクラブ」から、「世界200か国のネットワークを活用してクオリティの高い教育環境を創りだす近未来型の普通教育機関」となる。
そうなったら、柔道はこれまで以上に「一般的に人間として必要な修養の方法と認められるように」なり、皆がこぞって道場の門をたたき、そして、より多くの人々が柔道の先生になりたいと思うのはないだろうか。

プラットフォーム運営組織

もっとも、このような取組みを個々の道場が単独で行うことは困難である。そこでこの取り組みをサポートするプラットフォーム運営組織が必要となる。

例えば、百貨店に出店するテナントは、駐車場やトイレを設置する必要がない。各グループが個別に対応するとコストも時間もかかるが、プラットフォーム運営組織(百貨店)が一手に引き受けると低コストで実現できる。

要は、参加グループに共通する本業以外の事務をプラットフォーム運営組織が引き受け、プラットフォームに参加したグループが本業に集中できるようにすることであるが、柔道を通じた交流の場を創りだすプラットフォーム運営機関の場合、人のマッチング、関係者のスケジュール調整、人の移動に伴い発生する様々な事務(移動や宿泊の手配)、柔道の稽古以外のプログラムの立案や実施、料金の決済、トラブルの処理など種々のサポートを提供する必要があるだろう。本稿はこのプラットフォームを運営するネットワークの形成を企図しているが、この点は改めてふれたい。

留意点

以上、柔道を通じた交流を盛んにし、日本のソフトパワーの向上を図るということは、プラットフォーム戦略というコンセプトで整理できることをふれたが、2点ほど留意点がある。

1点目は、ここでいう「日本」とは誰か、という点である。
日本の政府ではない。「われわれ」である。
国際柔道連盟の会長になった松前氏は、東海大学の新年会で次のようにいう。

昨年、私は国際柔道連盟の会長に立候補いたしまして、地球上を駆けずり回っていました。おかげを持って圧倒的多数で当選の栄を得たのでありました。私は痛切に、この経過をたどって感じることがあります。
日本国民は決して世界から憎まれてはいません。ありようにおいては、愛されています。日本の政府のやることに対しては非常な批判があるようですが、ところが日本人個人に対しては、やはり友情とそしてまた信頼を持ってかかってくる。これが、(私が)当選した大きな原因であると思います。このような意味において、われわれは悲観するにたらないのであります。
新しい時代の建設はわれわれ日本国民にあります。政府にはない。われわれにある。われわれにしかできない、ということを痛切に感じているのが現状です。本年以後において、私共は積極的に世界にむかっての活動を開始しなければなりません。柔道だけではありません。柔道などは単なる活動のパイプにすぎません。これらのパイプを通し、そして世界との友好親善、相互理解、また文化交流をと、あらゆる面において活動を続けることが東海大学の、世界に存在する理由になると思うのであります。(「松前重義国際活動Ⅱ」346〜347頁)

ソフトパワー」を提唱した政治学ジョセフ・ナイ氏が指摘するとおり、文化に基づくソフトパワーは政府が直接コントロールできるものではなく、実際、柔道は日本政府の政策によって世界に普及したわけではない。ここでいう「日本」とは「われわれ」なのである。なお、上記の松前氏の発言は、東海大学の総長として東海大学の新年会での挨拶であるため「われわれ」とは東海大学の職員をさしているが、要は、国家意識をもつ人々ということだろう。

2点目は「日本」に限らないという点である。
日本以外もプラットフォームは創れるし、また創るべきである。ここでは、柔道の母国である日本がリーダーシップを発揮したほうがいいという趣旨であって、松前氏が国際柔道連盟の会長に立候補した以下の理由と同じである。

・・私がこのポストに立候補したのは、日本が生んだ世界競技の会長を、日本に取り戻すというような、偏狭なナショナリズムから生まれた発想からではない。日本で生まれたスポーツが国際化し、その連盟の長に外国人が就任することは、その競技が世界に認められたなによりの証明であり、ある意味では喜ぶべき事態ともいえるからである。
にもかかわらず、私があえてこのポストに立候補したのは柔道という、国際化したスポーツをさらに世界に広めてゆくためには、なんといっても、このスポーツの祖国である日本が、総力をあげて取り組んでゆくことが不可欠であると考えるのと、そのことが日本を世界に理解させ、国際社会の中での日本の地位を、戦力の拡充や経済力の強化といった、いま、わが国が世界各国から批判されている方向ではなく、平和、かつ友好的な方法で向上させてゆくうえで絶対に必要なことではないかと考えたからである。
第37回 これからの日本からみた柔道(2) - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

日本のビジョン

それでは最後に、プラットフォーム戦略の先にある日本のビジョンをふれて今回を終わりとしたい。
嘉納は、大小数百か国がひしめく国際社会において、日本をどのような国にしようとしたのだろうか。嘉納はどのような日本を描いたのだろうか。

嘉納はいう。

世界の将来は、各国家の対立は依然今日の姿を継続するものと見るを当然と考えるが、社会的には、各国民は相接近し、文化も漸次渾一することは自然の勢いである。その時に当たって、わが国は多く他国に学び、我より彼らに教えるものがなければ、甚だ肩身が狭いのみならず、逆に軽侮を受けることをも免れ難いのである。
それでわれはかれらに何を教え得るかというに、柔道をおいて外に何があるだろうか。もちろん、個々の学者や研究家が日本の文化に就いて調べたり参考にしたりする事実はあるが、柔道の如く広く世界に行われ、ますます盛んにならんとしているものは外に何があるであろうか。
今回欧州旅行中目撃した事実に徴しても、柔道こそは日本が世界に教うべき使命を持っていると考えられるのである。今日こそ彼らの研究はなおわれらに及ばぬことが遠いということが出来るが、彼らの研究力は決して侮ることが出来ぬ。もしわれらが研究を怠る時は、他日われらは彼らの教えを受けねばならぬようになり、柔道の逆輸入を見ることがないと保証することは出来ぬ。日本は柔道において進んで外国に教うると同時に、その種の尽きぬようあくまで進歩向上に努めなければならぬ。(「嘉納治五郎著作集」109〜110頁)

まず、「我より彼らに教えるものがなければ、甚だ肩身が狭いのみならず、逆に軽侮を受けることをも免れ難い」とは、逆にいえば、日本から世界に何か貢献することがあれば、日本は世界の人々から応援され(ソフトパワー)、繁栄することができるということである。

それでは「柔道こそ日本が世界に教うべき使命を持っている」とはどういうことだろうか。

嘉納は、講道館文化会を設立し、柔道を国内外に普及することによって「世界全般に亙っては人種的偏見を去り文化の向上均霑に努め人類の共栄を図らんことを期す」と宣言したが(講道館文化会宣言)、この講道館文化会をそのまま「日本」と置き換えれば分かりやすいだろう。

つまり、嘉納が描いた「日本」とは、柔道という教育システムの提供を通じて世界中の人々の教育を支援し、もって「人類の共栄を図らんことを期す」国である。
したがって、「柔道こそ日本が世界に教うべき使命を持っている」とは、「日本は、柔道という手法で人類の教育を担い、人類の共栄を図らんとする使命を持っている国」という意味だろう。嘉納は、日本を「人類の教育を担う国」として描いたのである。

そして、人類の共栄に必要不可欠である教育を(部分的にしろ)日本が担うからこそ、世界中の人々が日本の味方となり、日本は末永く繁栄する。

これが嘉納の描いた日本のビジョンであり、繁栄に至る道である。思うに、このビジョンに向かって、無数の柔道家が国内外で柔道の普及に努め、またオリンピックなどでマスコミを通じて多くの人々に柔道の素晴らしさを伝えてきたのではないだろうか。

日本とは一体どのような国なのか。日本人は自国をどのような国と認識し、また他国の人々は日本をどのような国と認識するのか。教育学者の斎藤孝氏はいう。

・・とにかく治五郎は近代史における日本の位置、世界の中での日本の立場を考え、「日本人ここにあり」ということを示すために柔道に着目したのでした。その着眼点は優れていたといえるでしょう。

なぜなら現在、柔道は世界中に知られていて、それが日本の伝統的な競技だというのはあまりに有名です。ほかに空手人口も世界的に見て多いですし、合気道もそうです。つまり「武」というものが、日本の文化的輸出品の中で大きなものになっているのです。
残念ながら日本人は、「武」が日本文化の中の最大の輸出品目であるという自覚をあまり持っていません。
しかし世界の人々は、日本を肯定的に評価する見方のひとつに、日本の「武」の精神を通じた人間形成の文化を挙げています。そしてそれに参加したいという外国人はたくさんいます。黒帯を締めて「武」の心を追求したいという外国人は跡を絶ちません。
たとえ日本の経済がどう崩れたとしても、「武」の精神を文化として世界に輸出した国であるという評価は残るはずです。ですから私たち自身が、「日本」という国の価値をたんに経済国家ということだけに置いてはいけないのです。
「武」は野蛮なものどころか、非常に高い文化を内包していて、人間形成の大きな軸になるものだということを世界中に広めた治五郎の功績は、計り知れないと言わなければなりません。

(斎藤孝「代表的日本人」79〜80頁)

日本とは経済が豊かな国というだけではない。「武」による人間形成の文化を世界中に広めた国であり、人類の普遍的な教育システムを創った国である。
そして、これからの社会でこの教育システムを活用する方法とは、国内外で柔道を通じた交流を盛んにすることではないだろうか。実際、柔道を通じた交流は既に行われている。本稿は、単にこれを組織的に大規模に行うべきという提案である。

以上、新しい仕組みの必要性について「日本」という視点からみた。これまで「柔道」(第28回)、「教育」(第29回〜第35回)、「日本」(第36回〜第38回)という視点からみたが、次回は最後に「神話と通過儀礼」という視点からみていきたい。

第37回 これからの日本からみた柔道(2)

国の繁栄には、軍事力、経済力も重要であるが、「本当のカギはどれだけ味方を増やせたか」(ソフトパワー)にある。

今回は、嘉納以後、柔道こそが世界に貢献できる日本の文化であり、だからこそ日本のソフトパワーであるという認識をもって活動した代表的な人物、松前重義氏(東海大学創設者、国際柔道連盟会長、国会議員など)にふれながら、これからの日本をみていきたい。

ソフトパワーとしての柔道の認識

松前氏は1979年から1987年まで(2期8年)国際柔道連盟の会長を務めたが、そもそもなぜ立候補したのだろうか。
その理由の一つは「柔道」が日本のソフトパワーであることをよく認識していたからである。

以下、柔道家山下泰裕氏が運営する柔道教育ソリダリティのHPに掲載された、松前重義録「国際柔道連盟会長立候補にあたって」松前重義録「国際柔道連盟会長立候補にあたって」 | 柔道教育ソリダリティーから引用する。

・・私がこのポストに立候補したのは、日本が生んだ世界競技の会長を、日本に取り戻すというような、偏狭なナショナリズムから生まれた発想からではない。日本で生まれたスポーツが国際化し、その連盟の長に外国人が就任することは、その競技が世界に認められたなによりの証明であり、ある意味では喜ぶべき事態ともいえるからである。

にもかかわらず、私があえてこのポストに立候補したのは柔道という、国際化したスポーツをさらに世界に広めてゆくためには、なんといっても、このスポーツの祖国である日本が、総力をあげて取り組んでゆくことが不可欠であると考えるのと、そのことが日本を世界に理解させ、国際社会の中での日本の地位を、戦力の拡充や経済力の強化といった、いま、わが国が世界各国から批判されている方向ではなく、平和、かつ友好的な方法で向上させてゆくうえで絶対に必要なことではないかと考えたからである。

私は、この 10 年間、東海大学の総長として、また世界各国との学術文化交流を業務とする日本対外文化協会の会長として、東・西を問わず、多くの国々を歴訪してきた。そして、そのなかで二つの事実をつぶさに感じとってきた。

一つは、海外における日本への理解が実に不足しているというか、誤解も少なからずあり、結果として、日本の評価が極めて低いものであるということ。もう一つはこのような状態の中でも、柔道や空手という日本が創造したスポーツだけは、驚くべき普及をとげ、多くの国の人々に愛されているという事実である。
(中略)
ともかくも、文化交流や留学生交流を積極的に推し進め、日本の伝統や文化の現状についての相互理解をはからない限り、経済強国日本に対する国際的な批判は今後強まりこそすれ、改善されることはないだろう。その意味でわが国は追い込まれた状況にあり、いまこそ積極的な手を打つ必要にせまられているのである。

では、どのようにして日本の文化を海外に紹介するか。そして、文化を通じて日本への理解と尊敬を深めてゆくか。
私は、この核になるものこそ、柔道であると考えている。

むろん、かつて成功したように日本の伝統工芸や、美術の海外展を行うこともよいだろう。すでに指摘したように、留学生や研究者の交流をはかることも大切である。しかし、このような仕事は時間のかかる問題であり、美術展を恒常的に実施することは不可能であろう。しかし、このような狭い範囲から一歩視野を広げると、まさに柔道という、日本が生みだした広い意味での文化の産物がこれまで日本政府の手を借りなかったにもかかわらず、現に世界各国に普及し、人々をとらえ、愛され、柔道人口はいまも日々増加の一途をたどっているのである。

欧米の都市に柔道道場のない街はない。小さな市のスポーツ・クラブをのぞいてみれば、そこには必ず柔道と空手クラブがあり、熱心な日本人コーチか、そのコーチによって指導された外国人が、大勢の人の指導に励んでいる。そして、日本人が考案したスポーツを、柔道衣を着用し、日本語で楽しんでいる。そして、それらの人々は、単に身体を動かすだけではなく、日本に親近感をいだき、柔道を通じて日本の精神を理解し、ひいては日本との友情を培っているのである。世界の人々が柔道を愛し、親しむのは、柔道こそ、日本のオリジナリティーをもったスポーツであり、そこに、なににも代えられない価値を発見したからである。

私が国際柔道連盟の会長に立候補したのは、この世界の人々に愛され親しまれた柔道のより一層の普及を通じて、日本の文化を世界に理解させ、日本のイメージを変え、新しい日本像をつくりだすためでもある。私は突然この立候補を決意をしたのではない。私は私なりにこの十五年間にわたって考え、そして行動してきた、文化の国際交流の仕事一環として、そしておそらく最後の仕事として、この立候補を決意したのである。
(中略)
私は昨年、喜寿を祝ってもらった。そして私は残された生涯を、十五才の時から六十年以上、熱愛してきた柔道と、その道を通じて日本将来に明るい展望を切り開く仕事にささげることを決意した。そして、この仕事はスポーツによる世界の交流の発展という面から世界の平和にも寄与できるだろう。

柔道は、最も平和的かつ礼節を重んずるスポーツであり、それは日本の精神の結晶であるといってよい。私は、この精神を世界に広めてゆきたい。
http://www.sinchakuchan.com/client/data/uploads/11/20100708083238_689376.pdf

わたしたちの国、日本はどのようにして「味方」を増やしていくのか。

松前氏の解答は、「核になるものこそ、柔道であ」り、「世界の平和に寄与」する「日本の精神の結晶」である「柔道のより一層の普及を通じて、日本の文化を世界に理解させ、日本のイメージを変え、新しい日本像をつくりだす」ことによって、である。

日本国内での認識

もっとも、日本の大多数の人々には、柔道が日本のソフトパワーであるという認識があまりないようである。
例えば、ヨーロッパで日本学を教える、ベルギー・ゲント大学教授のニーハウス・アンドレア氏は、武道が日本の「ソフトパワー」となりうることが見過ごされていると指摘する。

ヨーロッパの武道は地域のスポーツの伝統に順応し、日本の伝統から分化している。しかし、海外の武道学校のほとんどは、用具や技術用語のために日本語を保持し、和服を身につけ、挨拶などの日本の習慣に従っている。それに加えて、日本で稽古することは武道を習得する上で重要な要素と今なおみなされている。まるで武道の母国にやって来るかのようである。

武道は身体的、知的レベルでの国際交流の機会を提供し、社会についてのステレオタイプな考えを取り除くのに役立つかもしれない。この意味で、武道は重要な「ソフトパワー」とみなされうる。

ヨーロッパにおける日本学の教員として私は、学生が日本語や日本文化を学び始めるのには主に二つの理由があることに気付いた。それは、漫画と武道である。

日本政府は漫画やアニメと、日本の国際的なイメージとの関連性を認識し、2008年(平成20年)3月に漫画のキャラクターであるドラえもんを「アニメ大使」に任命した。しかしながら私見では、伝統的でステレオタイプな考えを超えて、現代日本について(も)良き理解を促すことや、文化間の対話や理解を拡充する上で、武道も有益になりうることが見過ごされている。(生誕150周年記念出版委員会「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」283頁)

前回も引用したが、斎藤孝氏もまた次のように指摘する。

・・とにかく治五郎は近代史における日本の位置、世界の中での日本の立場を考え、「日本人ここにあり」ということを示すために柔道に着目したのでした。その着眼点は優れていたといえるでしょう。
なぜなら現在、柔道は世界中に知られていて、それが日本の伝統的な競技だというのはあまりに有名です。ほかに空手人口も世界的に見て多いですし、合気道もそうです。つまり「武」というものが、日本の文化的輸出品の中で大きなものになっているのです。
残念ながら日本人は、「武」が日本文化の中の最大の輸出品目であるという自覚をあまり持っていません。
しかし世界の人々は、日本を肯定的に評価する見方のひとつに、日本の「武」の精神を通じた人間形成の文化を挙げています。そしてそれに参加したいという外国人はたくさんいます。黒帯を締めて「武」の心を追求したいという外国人は跡を絶ちません。

たとえ日本の経済がどう崩れたとしても、「武」の精神を文化として世界に輸出した国であるという評価は残るはずです。ですから私たち自身が、「日本」という国の価値をたんに経済国家ということだけに置いてはいけないのです。
「武」は野蛮なものどころか、非常に高い文化を内包していて、人間形成の大きな軸になるものだということを世界中に広めた治五郎の功績は、計り知れないと言わなければなりません。(斎藤孝「代表的日本人」79〜80頁)

これからの日本を考えるうえでまず必要なことは、柔道が日本のソフトパワーであり、さらに、嘉納や松前氏は、柔道こそ日本の中心的なソフトパワーであると認識して活動したことを理解することだろう。

ソフトパワーの源

柔道が日本のソフトパワーの核になるのであれば、その力を向上させるうえで柔道の何処にソフトパワーとしての源があるのか、つまり、何故、柔道にはソフトパワーがあるのか、という点が問題となる。

教育

大別して二つあげるが、まず第一は、なによりも「教育」としての有効性である。

この点はこれまで何度もふれてきたが、松前氏もまた柔道が教育として有効であるからこそ推進した。

松前氏は、国際柔道連盟の会長を務めたほか、国会での中・高校における武道正科採用の主張、日本武道館の設立、国際武道大学の設立など、日本の武道教育の確立に広く力を尽くしたが、その理由を次のようにいう。

・・私がもっとも危惧していることのひとつは、成長期における心身の協応的・統一的発達をうながすために欠かせないと思われる「練磨的な武道教育」が、戦後、すっかりなおざりにされている点である。

コンピュータの導入その他各種の教育機器の利用、大脳生理学や行動心理学その他各種の高度な学術的研究的適用などによって、今日の教育メソッドは戦前とは比較にならぬほど多様化し、効率化されている。したがって知能開発面に関するかぎりその成果はめざましいものがあり、たとえば情報処理能力や機器操作能力などにおいてはまさに高度工業化社会を推進するにふさわしい頭脳が輩出されつつある。

だが反面、自然界のいのちある生きものにほかならない人間の、なまなましい肉体や精神をたくましく鍛えあげ、すこやかに育てあげるような、素朴ではあるがじつはもっとも本来的な「生きた人間教育」がことさら無視されているような気がしてならないのである。

その結果、青少年のあいだに、知識や理屈には長じているが物事をあくまでもやりぬく忍耐力や責任感に欠けた者がふえ、また頭脳は優秀だが礼節や犠牲的奉仕の精神を失ったり、感激や感動の喜びを知らぬ不感症的な批判はするが責任ある行動を避ける、無気力者が少なくないことも事実であろう。

要するに頭脳や心身のアンバランス、肉体と精神のアンバランスといった偏頗な現象が、しだいに青少年本来のナイーブな心身の恒常性を狂わせ、歪ませつつあるのではないだろうか。もしそうだとすれば、本人の将来にとっても社会秩序の維持にとっても、これほど不幸な、また危険なことはあるまい。

私が戦後数年ならずして「武道教育」の再興を思い立ち、当時の武道否定ないし敬遠の風潮に抗してあえて「武道教育」振興の旗をあげ、今日にいたるまでふりつづけてきていることの最大要因は、つまるところ前記のような青少年たちの危ういアンバランス現象に気づき、それに歯止めをかけ、正常なバランス回復に軌道修正してやりたいがためであった。(
松前重義我が人生229〜230頁)

経済開発協力機構(OECD)のプロジェクト"DeSeCo"は、現在の教育の最大の問題点として、動機づけ、態度、価値観といった非認知的要素が開発されていないことを指摘するが、上記の松前氏の指摘はこれと同じだろう。
※DeSeCoはこちらを参照第30回 これからの教育からみた柔道(2) - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

そして、松前氏は、非認知的要素を開発する最も有効な方法として武道教育を挙げるのである。
※非認知的要素の開発に体育が有効であることはこちらを参照第31回 これからの教育からみた柔道(3) - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

松前氏の実体験

実際、松前氏は、柔道の稽古をしたからこそ大学受験の勉強を効果的に行うことができた、という実体験を持つ。

一日でも休むと、どうも体の調子がよくない。体が重くなり、気分までだるくなる。頭が冴えず、もやもやして勉強が進まない。学校から帰るやいなや3,4時間、思い切り投げたり投げられたりして汗を流し、さっと水を浴びると、はじめて心身ともにすっきりして勉強したい気分になる。机に向かうと勉強に精神を集中できる。猛勉強にもかかわらず体力がつづいたのも、日ごろ柔道で肉体を鍛えあげておいたためであろう。(中略)のちに私が首尾よく念願の東北帝大に入れたのは、ひとえに柔道のおかげであった。(「松前重義我が人生29頁)

(運動した後に学習したほうがよりよく学ぶことができる、という点は、最近の体育の成功例である米国イリノイ州ネーパーヴィルの体育と同じ考えである。※ネーパービルの体育はこちら第15回 米国イリノイ州ネーパーヴィルの奇蹟 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

さらに、松前氏は自身の柔道大会での経験から、柔道によって人間性の陶冶が図られることを認識した。

たとえば試合の場では稽古時とちがい、力や技のみではなく、相手の人間性を洞察したり事態を冷静に判断したりする心的能力や知的能力が重要だということである。試合に臨む前に闘う相手と自分との力関係を認識し分析すると同時に、いざ試合がはじまったあとにもたえず相手の心理や動作を洞察し、また事態の推移や変化を冷静にとらえ、彼我の力関係をみずからに有利に展開するよう臨機応変の駆け引きをおこなえるだけの精神的余裕を失わぬこと。ほぼ拮抗した力や技の持主同士の場合、いかに得意技であっても力や技だけで相手をねじ伏せようとするのは無理である。
(中略)
要するに、唯我独尊的な自己中心の柔道ではなく、あくまで相手との相対的な力関係を勘案した幅のある柔道の練磨に努めることが大切なのではないか。つまり格闘技とはいっても柔道の場合、単に力や技のみの格闘ではなく、より以上に全人的な人間と人間の闘争、人間性人間性の勝負なのである。したがって最終的には、日常の、平常の人間性の陶冶こそが柔道の優劣の差を分ける決め手になる。ざっとそんなことを、この大会の体験をつうじて私は悟りかけた気がする。私にとっては実に大きな収穫であった。(松前重義我が人生33〜34頁)

例えば、「我の力関係をみずからに有利に展開するよう臨機応変の駆け引きをおこなえるだけの精神的余裕を失わぬこと」という点などには、明らかに高度な認知的要素、非認知的要素の発達がみられるだろう。

柔道の不適切なスポーツ競技化

松前氏は、この教育的効果が高かった柔道がその力を失いつつあったことから、国際柔道連盟に立候補したのである。

・・大局的に見てもっとも懸念されたのは、柔道の本質を歪めかねない柔道のスポーツ競技化であった。たとえばスポーツ競技化にともなう体重別クラス制の細分化、あるいは、試合方法や審判・採点などにおけるルール改正などである。そうした傾向は以前から部分的に散見されつつあったが、全面的に顕在化したのはやはりパーマー体制後であり、放置すれば、遠からずして柔道は完全にレスリングと同様のスポーツ競技となり、本来の武道性、精神性がいちじるしく失われかねない形勢となりはじめた。
(中略)
柔道は周知のとおり、講道館の創設者である嘉納治五郎先生が、日本古来の柔系統の格闘武術であった天神真楊流起倒流その他の長所を勘案されながら創意工夫し、新たに合理大系化された近代武道である。社会効用的には先生のいわゆる「精力の最善活用」や「自他共栄」を趣旨とし、また特に知育・徳育・体育三位一体の教育理念に基づく学校体育の主軸となるべく型や乱取方式に定められたいわば教育的武道であった。
(中略)
にもかかわらず柔道のスポーツ競技化が推し進められた一因は、柔道の国際的普及化を急ぐあまり、さらには柔道の急速なる国際化に迎合するあまり、普遍化のための手段を偏重して固有の本質と目的とを忘却したがゆえの錯誤にあったものと思われる。(「松前重義わが人生」15〜18頁)

「普遍化のための手段を偏重して固有の本質と目的とを忘却したがゆえの錯誤」というものは、本稿第一部でふれた、短期目標と長期目標のバランスを見失った、ということと同義である。
※短期目標と長期目標のバランスについては第20回を参照(第20回 道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値がある。 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

いずれにせよ、柔道は、教育として効果的であるからこそ多くの人々を引き付けるのである。嘉納はいう。

・他の修養と離れた技術は、軽業師の技術と比較し得るものであって、特に取り立てて尊重する価値が認められまいと思う。柔道の修行者が文武の両道にわたって研究練習を積んでこそはじめて国家社会に大いに貢献することも出来、世人から尊敬を受くることも出来るのである。(嘉納・著作集第2巻89頁)

・・柔道が技術ばかりでなく、一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば、・・遂には特殊の人の柔道でなく国民の柔道となることが出来よう。(嘉納・著作集2巻275頁)
第25回 特殊の人の柔道から国民の柔道へ。 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

「パイプ」

さて、2点目がこれからの日本を考えるうえで最も重要な点である。
それは、柔道には、人々の間に国家、民族、宗教等の違いを乗り越えた「パイプ」(つながり)をつくる力があるという点である。

松前氏は、国際柔道連盟の立候補の演説において次のようにいう。

私は人道主義の立場を基礎として、国家エゴイズム、即ち国家至上主義を排し、民主主義、平和主義に基づく国家民族間の友好親善のパイプをつくり、平和への道を拓きたいと念願するものであります。そして柔道こそは世界共通の平和へのパイプでありたいと念願するものであります。(「松前重義その国際活動Ⅱ」340頁)。

日本と世界各国の間に、そして世界中の人々の間に「パイプ」をつくり平和への道を拓くこと、これこそが松前氏が最も望んだことであった。そして、世に数ある「パイプ」のうち、松前氏は柔道を選んだのである。

ドイツでの出来事

では、なぜ、松前氏は柔道に「パイプ」を見出したのか。松前氏には柔道のつながりを実体験したエピソードがある。

昭和8年ヒトラーナチス政権を樹立した年)、30代前半の松前氏は、日本の通信省官僚としてドイツ通信省の電信電話関係施設を訪問した。ところが、事前に許可をとっていたにもかかわらず、現地の役人から外国人の訪問は不可として拒否された。しかし、その翌日、松前氏がドイツの柔道クラブで稽古をし、その話をドイツ人の道場主にしたところ、道場主はヒトラーに連絡し(知り合いだった)、視察することができた。このとき、松前氏は「柔道の取りもつ縁の有難さ」を感じたという。

それまでただひたむきに柔道を愛し、がむしゃらに稽古に励んできただけの私は、この時はじめて、柔道というものが人間同士にあたたかい友情と信頼とをもたらし、立場や国境を超えてまで人間同士を深く結縁せしめる役割をも果たすことに気づかされた。肉体をぶつけ合い、素手で力一杯、格闘することから生まれる親身の友情と信頼感。この感慨は、その後、様々な場面で何度か実感させられることになる私にとって貴重な発見であった。(「松前重義我が人生」79〜80頁)

その後のナチスドイツの非道な仕打ちを知る後世からみるとヒトラーという点で少々聞こえが悪いが、この点はさしおき、

「肉体をぶつけ合い、素手で力一杯、格闘する」と「親身の友情と信頼感」が生まれる。そして、この「パイプ」(つながり)は国家、民族、政治体制や宗教等の違いを越えて生まれる。

日本を離れ異国を訪問した松前氏は、このシンプルな事実の中に「平和への道を拓く」キーがあることを発見した。

国際柔道連盟コーチ・審判セミナー」

さて、「柔道こそは世界共通の平和へのパイプでありたいと念願する」松前氏が行ったものが、昭和56年春に開催された「国際柔道連盟コーチ・審判セミナー」である。

国際柔道連盟の会長に就任した松前氏が取り組んだ課題の一つは、柔道の不適切な競技化を阻止し、柔道の教育的側面を強化することであったが、具体的にはどうしたらいいだろうか。

松前氏は、次のとおり、ルールの改訂等ではなく、各国の指導者に対する教育の充実という方法をとる。

すでにオリンピックの正式種目に採用され、十数年にわたって国際的に定着している体重別クラス分けや国際ルールをここで一挙に変えることは、いたずらに国際柔道界を混乱させるだけで、柔道の普及という面から見てもマイナスである。国際ルールにもそれなりに合理的なよさがある。それよりもいま国際柔道界で一番問題になっている審判員やコーチ教育を通して、人格形成に基本を置く柔道精神を広めるべきである。そのことがいきなり精神主義を前面に打ち出すより、結果的に世界中の柔道を愛する人々に、柔道の本質を広く浸透せしめ、国際的な友好親善の道を開くことにつながる。「本を忘れず、末に奔らず」という言葉があるが、これこそ松前の国際化した柔道に対する基本姿勢であった。(「松前重義 その国際活動Ⅱ」394頁)

この各国の指導者に対する教育方法として、日本の東海大学にて、昭和56年4月28日から5月7日まで、国際柔道連盟コーチ・審判セミナーが開催され、40か国から約100名の指導者が、審判技術や教授方法などについて研修をすると同時に、寝食を共にしたのである。

このセミナーに参加した、女子柔道の母、ラスティ・カノコギ氏(ラスティ・カノコギ - Wikipedia)は、次のようにいう。

松前氏の男女柔道への貢献は数え切れないほどあります。そのなかでも私の記憶にいつも大きな位置を占めている特別の例があります。それは松前氏の発案で、IFJ会長の招待による第一回国際コーチ・レフリーセミナーが、1981年(昭和56年)に東海大学で開催されたことです。

この催しには政治体制の違いを乗り越えて世界中から大勢の人が集まり、学び、交歓し、永遠の友情の絆を結ぶ場になったのでありました。この行事は松前氏の友好と平和への信念を行動によって示したものでした。また松前氏の指導による格闘技というものが、いかに平和を創造し得るかということを知りました。

1991年(平成3年)、スペインのバルセロナの世界選手権大会のことでした。東ドイツの青年が一位になって畳から退場したあと、西と東のコーチと選手が一緒に抱き合って勝利に泣いたのでした。

松前氏の精神が、彼らのあの行動を誘ったのだと思います。私は偉大な精神を持った柔道のチャンピオンを見るたびに松前氏を思い出します。松前氏のかけがえのない教えによって私達は、決断力、人格の強さ、精神の強さを持つことを学びました。松前氏は私達の心に実の多くのものを残してくれました。私は心から愛と尊敬の念を捧げずにはいられません(「松前重義 その国際活動Ⅱ」383頁)

この当時、ソ連アフガニスタン侵攻によって東西の緊張が高まっており、各国が政治的に対立していた。
その対立する関係にあった各国の指導者たちは、柔道の審判技術や指導方法を学び、寝食を共にすることによって、「政治体制の違いを乗り越えて」「友情の絆」を結び、この「つながり」のプロセスを通じて「格闘技というものが、いかに平和を創造し得るか」ということを学んだのである。

柔道をともにすることで「パイプ」(つながり)が生まれる。この事実は多くの人々にとって当たり前のことだろう。しかし、この当たり前の事実の中に、日本のソフトパワー向上と世界の平和の糸口があったのである。

人の生活の豊かは人とのつながりにあるといっても過言ではない。国家、民族、宗教、政治体制等の違いを乗り越えて人との素晴らしいつながりをつくるからこそ、柔道は多くの人々を惹きつけるのである。

これからの日本が具体的に行うこと

以上、柔道のソフトパワーの源を「教育」「つながり」という視点からみたが、それでは、これからの日本がソフトパワーを向上させるためには、具体的にどうすればいいのだろうか。

本稿の結論は、この「つながり」をより広くより深く作り上げることである(それがよりよい「教育」につながる)。

つまり、本稿が検討している仕組み

  • 異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をすること、
  • そして、可能であれば道場の関係者宅にホームステイをさせていただき、一定期間その地で生活すること、

を実施することである。

少々長い引用になるが、松前氏は、これからの日本について次のようにいう。

柔道が今日の隆盛をみるについては、先ほども記したように先達のご努力が大きな力になったのは事実ではありますが、いま一つ忘れてはならないのには、柔道を通じて世界の国々と交友を結び、お互いがお互いを理解し合い、この世界を平和で豊かな社会にしたいという人間愛、人類愛に根ざしたものが根底にあったからでありまして、これこそが先達の熱意となり、世界を駆けめぐる原動力になったということであります。

このような思想を根底とする柔道であればこそ、今日の隆盛をみるようになったのでありまして、先人の残したこの偉大な遺産をどのように承継していくかということは、日本の将来にとって重要な問題だと考えざるを得ないのであります。
でありますから、柔道をやって海外へ行き、そこで大いに儲けてやろうなどという現実的な合理主義は、断じて柔道界から追放しなければなりません。そうではなく、日本の将来の歴史のために、平和な世界を建設していくために、柔道を生かさなければならないという考え方をまず根底においた柔道でなければならないのです。

少なくとも、ただ興味本位にばたばた倒したり、倒されたりする競技としてこれを見るようではいけないのであります。世界中の人々が愛好してくれる競技として、しかも日本の価値を大きく高めるものとして、さらに国と国、人と人の友情と信頼を深めるものとして、友好親善に大きな役割を担っているのが日本の柔道であると考えたいのであります。

私は国の将来を考えるとき、柔道の専門家は別としても、柔道の愛好家は今後ますます増えると思いますし、また増やさねばならないと考えます。それも世界的規模でそうしなければなりません。そうなれば、少なくとも日本を敵視したり、誤解することはなくなり、日本人の考え方なり、行動を理解しようと努めてくれるはずです。私の経験で言えば、柔道をやった人は日本に好感を持ってくださるからです。

それゆえ私は、柔道の愛好家をできるだけ増やしていくにはどうしたらいいかを考えてみました。それは今後、外国の大学生、なかでも柔道部の学生に対して、日本から積極的な働きかけを行い、日本柔道研修のため、海外の大学と日本の大学が柔道を通じて積極的に交流の場をつくってはどうかということであります。

その方法にはいろいろ考えられますが、たとえば夏休みなどを利用して、日本に来て稽古をつけてもらいたい諸君にはそれなりの受け入れ準備を整え、指導する先生、道場はもちろん、生活環境も十分に考えた態勢をつくりあげることです。

また日本には来れないが講師派遣の要請があればいつでもその要望に応え、優秀な指導者を送るというぐあいに、大学生を中心とする積極的な柔道交流の機構を日本的規模でつくりあげてはどうかと思うのです。

このようなことがもし実現できたとすれば、それは日本の将来にとって実に素晴らしいことだと思います。なぜならば、これら世界の若者たちが柔道を通じて友情の絆をつくり、お互いの人柄を理解し、国の文化と国民性を理解していくことにつながっていけば、それはやがてこれらの若人たちが社会人として大きく成長したとき、たとえば国家間の外交や、商取引上においても、どれだけ有効な働きをするかはかりしれないものがあるからです。これこそは、世界平和の根底に根ざすものではないでしょうか。日本の柔道はこのような役目を充分に果たし得る力と実績を持っていると思うのであります。

かつて国際連盟があった時代、第二次世界大戦前のことですが、現在の国連の事務総長の次長の重責を担った日本人がいました。その方は杉村陽太郎という方で、柔道八段でした。杉村さんは当時、世界の外交の檜舞台で大いに活躍され、信頼も厚かったのでありますが、この方が身をもって示した柔道を通じての実践が、どれだけ日本を紹介するのに役立ち、日本人を理解せしめるのに役立ったかしれないということであります。杉村さんの例をみるように、柔道は国際的な友情を築き、国家間の融和にも大いに貢献できるのであります。

日本の将来を考えるとき、現在の大学生をこのような方法で、しかも世界的規模で交友を盛んにしていけば、二十年、三十年という歩みの中で、きっと外交、経済の上で生かされることになると思いますし、私は何とかしてこのような交流の場を民間ベースでもいいからつくってみたい。いやつくることが日本の将来にとって是非必要なことなんだと信じたいのであります。みなさんはこのような問題をどのように考えられるでしょうか。(「松前重義 その国際活動Ⅱ」284〜287頁)

これからの日本が具体的に行うべきこととは何か。

松前氏は、「世界的規模」の「交流の場」、すなわち「世界の若者たちが柔道を通じて友情の絆をつくり、お互いの人柄を理解し、国の文化と国民性を理解していく」場を創ることである、という。

大学生を中心とするか否かは別として、本稿で検討する仕組みは、この松前氏が示した方向と同じものである。これから具体的に日本が行うこととは、異なる地にある道場の人々と共に稽古をし、「つながり」をさらに広めそして深めていくことなのである。

エピソード

松前氏は、原子力爆弾がドイツに落とされなかった理由について、次のようにいう。

・・ふと思い出したのは、あるエピソードであった。それは第二次大戦中のことであるが、アメリカ軍の戦略本部は対ドイツ攻撃作戦にあたって、まずドイツに対する原子力攻撃をしない、ハイデスベルグ大学をはじめ各地の大学や病院、研究所、博物館などへの爆撃はいっさいさしひかえた。
それは戦略本部の首脳部の中に多くの旧ドイツ留学生がおり、彼らは在独中にドイツから啓発された学問上の恩義を忘れることができなかったからだ、というのである。そして文化交流の意義を高く評価しているのである。
それにくらべて”一方通行”の日本は・・・。私は、その時、国がやらないのなら私がやらなければならないと固く心に誓ったのであった。(「松前重義 我が人生」257頁)

「戦略本部」に多数の日本留学生がいたら、歴史はどのようになっていただろうか。そして、多くの留学生を引き付けるほど魅力をもったものが日本に何かあるだろうか。

日本ではそのポテンシャルがあまり話題にならないが、柔道は、世界約200か国に普及するほど魅力をもっており、「日本で稽古することは武道を習得する上で重要な要素と今なおみなされている。」(「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」283頁)のである。

第36回 これからの日本からみた柔道(1)

これまで新しい仕組みの必要性について、「柔道」「教育」という観点からみてきたが、今回は「日本」という観点から、すなわち、わたしたちの国、日本が末永く繁栄するためにはどうしたらいいだろうか、という点からみていきたい。

嘉納は名実ともに当時の日本を担うエリートであるが、その嘉納が日本の興隆のためにとった方法とはどのようなものなのだろうか。

日本国民に対する教育

ここでは大別して二つあげるが、まず一つ目は、日本国民に対し、良質な教育を提供することである。

「教育のいかんによって政治はよくも悪しきもなり、産業もまたあるいは衰え、あるいは発達するものである」と考える嘉納にとって、教育はあらゆるものの基礎である。したがって、嘉納は教育に力を尽くすことによって日本の興隆を企図した。

嘉納が教育者であり、教育のなかでも徳育としての体育に力を入れたことは既に何度もふれた。
※参考:教育者第2回 三つ児の魂百まで - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜徳育としての体育第12回 本当に耳にタコができるぐらいお話をされていました。 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜など

ここでのポイントは、柔道は、日本の興隆を企図して創られたということ、すなわち、嘉納には、柔術に内在する高度な教育システムをあまねく国民に提供し、これによって日本に繁栄をもたすという明確な目的があったという点である。

例えば、世界的に高い評価を受けている日本の「ものづくり」、これが成り立つのは根底に工夫に工夫を重ねる精神が存在するからであるが、この精神はどのようにして育まれたのだろうか。
この点、教育学者の齋藤孝氏は、嘉納が武道によってこの工夫する精神を「日本人の身体に染み込ませようとした」ことを指摘する(斎藤孝「代表的日本人」83〜85頁)。

考えてみれば、日本という国がNHKの番組「プロジェクトX」に代表されるさまざまな工夫を成功させたのは、ほとんどすべてが「精力の最善活用」によっています。たとえばウォシュレットを見ても、あんなに細かく工夫し、新製品をつくり続けているのは日本らしい。工夫しすぎるほど工夫していて、もうこれ以上、工夫するところはないと思えるほどです。
そうした営みの中に、日本という遺伝子が詰まっていると思います。本当に、よくこの人的エネルギーを結集してここまで来たものだと感心するほかありません。
それは文化的遺伝子というほかなく、長い歴史をかけて人々がつくり、確立してきたものです。治五郎はそれを、武道という形で明治の日本人の身体に染み込ませようとしたわけです。
遠大な目的意識なしには生まれようのない発想です。そのことをもって、彼は「志」と言っています。彼は、日本人全部が「志」を持たなければいけないと強く主張しました。
斎藤孝「代表的日本人」83〜85頁)

戦後日本の発展の源泉

戦後日本の発展に柔道がどの程度貢献したのか、ここでは検証できないが、重要な点は、柔道は、諸外国の指導者から、日本の驚異的な発展の原動力として認識された、すなわち、柔道にもって国の興隆を図るという嘉納の方法は、実際に有効な方法であると認識されたという点にある。

例えば、東海大学の創設者であり国際柔道連盟の会長も務めた松前重義氏がヨーロッパの指導者と会った際、彼らは次のように話していたという。

とにかく我々は日本が終戦後二十年にして、あれだけの経済成長を成し遂げた、そのバイタリティの原動力はどこにあるのか研究した。その結果、やはり武道だ。武道そのものより、武道精神によって立ち上がったんだ。したがって、どこの国でも奨励しているんだ。
(「松前重義その国際活動」編纂委員会 「松前重義 その国際活動Ⅱ」305〜306頁)

同様に、元日本商工会議所会頭の永野重雄氏は、米国が「武道」に着目していた点を指摘する。

永野)これからこの間、アメリカのフォード大統領が来日した時、大統領は日本が用意したプランに対して、武道館を見たいと言った。その気持ちが我々には嬉しいんだな。武道人の一人として・・・・。日本が世界に向かって驚異的な発展をした秘密は何にあるのか関心を持っているんですよ。そうして日本人が気づかなかった武道に着眼しているんだ。
(中略)
松前)フォード大統領が、文楽を拒否して武道館を見にきたというのは、やはりアメリカ自体もヨーロッパと同じように、戦後の日本の復興のバイタリティの根源は大体ここにあるんじゃないかと見ていることがわかりますね。外務省や政府の役人は、世界が日本に対して何を求めているかということを知りませんね。
(「松前重義 その国際活動Ⅱ」305〜306頁)

人を投げるという技術そのものが日本の復興に役立つことは少ない。諸外国の指導者が着目したものは、武道に含まれた精神的な要素、つまり、武道の稽古をしているうちに何らかの高度な精神性が人に宿るという、その日本の独自の教育システムである。

平成23年3月11日以降、「復興」が日本の国民的テーマとなったが、一部のマニアのみが学んだ柔術を万人が学べるよう改良し、あまねく国民に柔道を提供することによって豊かな国を創ろうした嘉納の志は、日本が「復興」に至る一つの道を鮮やかに描いているのではないだろうか。

オリンピックに日本を参加させ、日本国民の体育を振興しようとした嘉納は、日本体育協会を設立したが、その設立趣意書で次のようにいう。

国の盛衰は、国民の精神が充実しているか否かによる。
国民の精神の充実度は国民の体力に大きく関係する。
そして、国民の体力は国民一人ひとり及び関係する機関・団体等が体育(スポーツ)に関して、その重要性をどのように認識しているかによる。

(出典:「日本体育協会の創立とストックホルムオリンピック大会予選会開催に関する趣意書」http://www.japan-sports.or.jp/jasa100th/history/index.html

柔道を海外に普及させた理由

さて、日本の繁栄のために嘉納がとった二つ目の方法、柔道の海外普及についてみていきたい。

ポイントは、日本の繁栄を企図した嘉納が、日本繁栄の源泉である教育システム「柔道」を、一体何故わざわざ海外に弘めようとしたのか、という点にある。

講道館館長である嘉納は、柔道を門外不出とし、外国に普及させないという選択肢を選ぶこともできたと思われるが、横山作次郎の米国派遣(セオドア・ルーズベルト大統領にも指導したという。)を筆頭に海外に指導者を送り、また、海外の柔道家と連携をとり、柔道の普及に努めた。それは一体、何故だろうか。

思うに、ポイントは、嘉納のいう「人を助け人に福を与えてこそ己にもよいことが戻ってくる」という点にある。

今日世界の実際を見るに、人々は如何に不必要な争闘をして互いに力の削り合いをしているのであるか。人を害し人に禍をなすことはあたかも天に向かって唾するようなもので、やがてその禍は己に戻って来るのである。人を助け人に福を与えてこそ己にもよいことが戻ってくるのである。この簡単なる理屈が分からず、人は絶えず衝突し、争闘しているのである。
(嘉納・著作集2巻118頁)

つまり、日本を豊かにするためには、他国を豊かにすることが必要なのであり、逆にいうと、他国の豊かさに貢献することができない国は豊かになることはできない、さらに言えば、他国の繁栄に貢献できない国は自国の存続も危ぶまれる、という認識である。

だからこそ、嘉納は「今まで日本は世界から種々の事を学んできた。日本も何かを世界に教えなければならぬ(加藤仁平・嘉納治五郎212頁)」「・・我より彼らに教えるものがなければ、甚だ肩身が狭いのみならず、逆に軽侮を受けることをも免れ難い。それでわれはかれらに何を教え得るかというに、柔道をおいて外に何があるだろうか(嘉納・著作集_巻109〜110頁)」と考え、国を豊かにする教育システム「柔道」を他国に普及したのである。

当時、日本に繁栄をもたらそうと奮闘した人々の大部分は、西欧諸国に行き、彼の地の文明を日本に取り入れようとした。この西洋文明をひたすら輸入した時代にあって、嘉納は、日本から世界に提供するものがなければ、長期的にみて日本を豊かにすることはできないと考えたのである。

この点は、これからの日本のあり方を考える上で重要なポイントであると思われるので、もう少し詳しくみていきたい。

「黄金律」

嘉納の子である嘉納履正氏(講道館3代目館長)は「私の見た父の一番尊ぶべき点は「世のため人のために尽くしたい」という純乎たる志であったといいたい。」というが、その嘉納がこれからを生きる子供たちに最も伝えたかったこと、彼ら彼女らを教育するうえで最も大切にしたとは何か。

「おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養うということ」である。

まず、塾が創立以来、今日に至るまで一貫した精神とは何であるかというに、これは、おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養うということである。
(中略)
真の人道なるものは、互譲ということにある。毎年元旦式の席上でいうように、おのれが十のものを与えて三か四をとるようにしろということである。お互いにこういうふうにして、余分のものはこれを平和的に分ったならば何らの争いもなく、至極平和であってかつ幸福であることができる。世の中の事もかくのごとくしてやるべきものであろう。そうしたならば、余計なことに頭を悩ますこともなくて、まことに楽である(嘉納・大系5巻52〜57頁)。

※参考:第8回 おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養う。 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

「おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力」は「精力善用・自他共栄」の原理に従って生きる力と本質的に同義であるが、要は、嘉納は、人も国家も「おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くす」ことができれば、その人自身、その国家自身が繁栄すると言っているのである。

なぜなら、「人を助け人に福を与えてこそ己にもよいことが戻ってくる」のであり、「人を害し人に禍をなすことはあたかも天に向かって唾するようなもので、やがてその禍は己に戻って来る」からである。

これを一般的な表現で言い換えるならば、嘉納の思想の核心は、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい(新約聖書・マタイによる福音書)」という、いわゆる「黄金律」にある。

豊かになりたいと思った場合、他人よりも自分が、自分が、と頑張っても豊かになることは難しい。自らが豊かになりたいと思うならば、なによりもまず他人を豊かにするように頑張る。そうすると(何故か)自分が豊かになる。

嘉納のみならず種々の賢人が話す内容であるが、しかし、多くの人々はこのメカニズムが分からない。
「この簡単なる理屈が分からず、人は絶えず衝突し、争闘しているのである。」

講道館文化会の設立

だからこそ嘉納は、真の柔道を世界に弘めようと講道館文化会を設立し、「人類の共栄を図らんことを期(講道館文化会宣言)」した。

すなわち、嘉納は、第一次大戦が終わった直後の欧米を訪問し、様々な指導者と会談しながら日本の行く末を探ったが、このとき、日本はこのままいくと取り返しのつかない事態に陥るという予見をいだく。

なぜなら、世界の情勢を鑑みると「国々互に融和提携しなければ独立を維持することが困難(講道館文化会設立趣旨)」となり「進んで広く世界に友邦を得ることに努めなければ、国家の隆昌を期することが出来(講道館文化会設立趣旨)」ないにも関わらず、日本や世界がそのような方向に向かっているとは到底考えられなかったからである。

嘉納はいう。

昔は、他国を害しても自国を利しよう、自国の力を充実して機会さえあれば他国を侵そうというような態度をもって国々が相対していたのであるが、今後はだんだんそういうことは許されなくなった。もし、ある一国がそういう態度をもって他国に臨むならば世界の諸国は結束してそういう国を亡ぼしてしまうであろう
(嘉納・著作集第1巻129頁)。

そこで、嘉納は、講道館文化会を設立し、人々の、そして国々の融和提携を可能とする、精力善用・自他共栄という真の柔道の普及によって、日本と世界を救おうとした。

※参考:第4回 将来臍を噛んでも取返しのつかぬようなことに立至る。 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

ソフトパワー

さて、「黄金律」による富国や「真の柔道の普及によって日本と世界を救う」など「現実離れ」したかのような話に聞こえるかもしれない。そもそも、他国の教育システムの改善を図ることで自国の繁栄を企図したという嘉納の行動は、本当にそのメカニズムどおり、自国の繁栄につながるのだろうか。

すなわち、このような血で血を洗うような争いを繰り広げている国際社会において、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」や「自他共栄」などという「甘ったるい」方針に基づき、他国の教育システムをより優れたものに改善したら、「正直者はバカをみる」がごとく不運な目に合うのではないだだろうか。

この点、「現実的」に嘉納を理解するうえで参考になるものは、米国クリントン政権で国防次官補などを務めた、ハーバード大学政治学教授のジョゼフ・ナイ氏が提唱する「ソフトパワー」である。

ナイ氏は、「力」とは自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力であるとし、「力」には、軍事力、経済力という強制や報酬によって他人の行動を変える「ハードパワー」のほか、説得や魅力によって他人の行動を変える「ソフトパワー」があり、その両方のパワーを賢く組み合わせて使う「スマート・パワー」が重要であると提唱する。

例えば、2003年のイラク戦争の際、トルコの議会や国民の間でアメリカが不人気であったことから、トルコ政府はアメリカ軍に国土の通行許可を出せなかった。
米国のイラク政策について、ニュート・ギングリッチ元下院議長は「ほんとうのカギは何人の敵を殺したかではない。本当のカギはどれだけ味方を増やせたかだ。この重要な基準をブッシュ政権は理解できていないのだ。」と語ったが(ジョゼフ・ナイ「ソフトパワー」10頁)、つまり、「ソフトパワー」とは味方を増やす力である。

ナイは、国のソフトパワーの源泉として、(a)他国が魅力を感じる文化、(b)実際にそれに沿った行動をとっている場合の普遍的な政治的価値観(自由や人権、民主主義など)、(c)他国から正当で倫理的に正しいとされている外交政策などを挙げる。

例えば、米国のソフトパワーの源泉となる文化として、ハリウッド映画とハーバード大学をはじめとする著名大学がある。
これらについて、フランスの元外相は、アメリカが強力なのは「映画とテレビによって世界の映像文化を支配しているため、他国の人々の夢や希望に影響を与えているからであり、同じ理由で世界各国の大量の学生が勉強の仕上げをしようとアメリカに集まってくるからだ」と嘆き(「ソフトパワー」30頁)、また、コリン・パウエル国務長官は「アメリカ国内で教育を受けている将来の世界の指導者との友情ほど、アメリカにとって価値の高いものは思いつかない」(81頁)という。

嘉納の「ソフトパワー」づくり

さて、この「ソフトパワー」というコンセプトをもとにみると、つまるところ、嘉納とは、「富国強兵」という「ハードパワー」獲得のために国を挙げて近代化・西洋化をしている時代において、「ソフトパワー」の重要性にいち早く気づき、「ハードパワー」だけでは日本の存続と繁栄を図ることはできない、「ハードパワー」と「ソフトパワー」を賢く組み合わせる「スマート・パワー」が必要があるとして、特に、他国が魅力を感じる日本文化「柔道」を普及させることによって、日本の「ソフトパワー」づくりを行った人物であるといえるだろう。

教育学者の斎藤孝氏は次のように指摘する。

・・とにかく治五郎は近代史における日本の位置、世界の中での日本の立場を考え、「日本人ここにあり」ということを示すために柔道に着目したのでした。その着眼点は優れていたといえるでしょう。

なぜなら現在、柔道は世界中に知られていて、それが日本の伝統的な競技だというのはあまりに有名です。ほかに空手人口も世界的に見て多いですし、合気道もそうです。つまり「武」というものが、日本の文化的輸出品の中で大きなものになっているのです。

残念ながら日本人は、「武」が日本文化の中の最大の輸出品目であるという自覚をあまり持っていません。

しかし世界の人々は、日本を肯定的に評価する見方のひとつに、日本の「武」の精神を通じた人間形成の文化を挙げています。そしてそれに参加したいという外国人はたくさんいます。黒帯を締めて「武」の心を追求したいという外国人は跡を絶ちません。

たとえ日本の経済がどう崩れたとしても、「武」の精神を文化として世界に輸出した国であるという評価は残るはずです。ですから私たち自身が、「日本」という国の価値をたんに経済国家ということだけに置いてはいけないのです。

「武」は野蛮なものどころか、非常に高い文化を内包していて、人間形成の大きな軸になるものだということを世界中に広めた治五郎の功績は、計り知れないと言わなければなりません。
(斎藤孝「代表的日本人」79〜80頁)

大小約200か国がひしめく国際社会の中で、日本が生き残り、そして繁栄していくためにはどうしたらいいか。

「ほんとうのカギは何人の敵を殺したかではない。本当のカギはどれだけ味方を増やせたかだ。」

嘉納はこのことを理解していた。だからこそ「・・我より彼らに教えるものがなければ、甚だ肩身が狭いのみならず、逆に軽侮を受けることをも免れ難い」として、日本が世界に教えることができるものが何かないだろうか、と考え、柔道に着目したのである。

米国の大学で学んだ外国の学生が将来、それぞれの母国で米国の味方として影響力を発揮するように、日本もまた、他国の人々が学びたいと思えるようなものを提供できれば、彼ら彼女らが、将来、陰に陽に日本の味方になってくれる。

嘉納はいう。

今日世界に広く学ばれている日本文化というものは美術と柔道の外にない。
而してこの美術は、欧米の人は自身に優秀な美術をもっていて、ただ異なったところのあるところから、研究するものであって、柔道のように彼にないものをはじめて学ぶのとは趣を異にしている。

今まで日本は世界から種々の事を学んできた。日本も何かを世界に教えなければならぬ。今後日本が世界に自分の説いているような柔道を教えることになれば、はじめて世界文化の上に寄与することができるのみならず、それらを学んだ団体が中心になって、日本の世界的発展を助けることが出来ようと思う。
(加藤仁平・嘉納治五郎212頁)

柔道の海外普及の留意点

最後に、嘉納が海外に柔道を普及するうえで留意した点にふれておきたい。

それは、サーカスのような見世物としての「術」ではなく、「教育システム」として認知されることである。そのためには、柔道の技術のほか、外国、学問、人格を兼ね備えた指導者が必要であった。

技術はもとより、柔道の教育的な価値を相手が納得するように外国語で説明することができ、かつ指導者として真に尊敬されるような学問・人格を有していなければ、弟子はいずれ離れていき、生活費に困るようになる。そうすると、ついには見世物として柔道を披露し、糊口をしのぐようになる。

こうなっては、本来の柔道の効果が発揮されないことはもとより、「ソフトパワー」としても力にならない。これが嘉納が懸念した点であった。

嘉納はいう。

過般タゴール翁が日本に来た際も、日本の文化を印度に輸入して、印度の文化を進めていきたいという考えで、柔道講師の招聘をもくろみ、その相談を講道館にしてきた。そこで高垣五段を推せんすることにした。先般もエジプトで、ルーマニアにならって柔道をはじめたいというのでフランスにいる安達大使に交渉してきた結果石黒六段が行くことになった。そういう風に、今後柔道の世界的進出は大いに期待し得られるのである。

私の計画では技術に加えるに学問と人格とを備えた柔道家を多数造り、相当の資金を持たせて欧州の大都会に派遣して世間の人のいうような単純な武術ではなく、講道館が説くところの柔道を教えたいと思っている。

言葉もでき、技術においても容易に追いつかれぬだけの実力を有し、学問と人格とを備えた人が行き、3年なり5年なりは先方から貰う金などをあてにせず、事にあたれるだけの用意があって行くなら、必ず信用を得、おいおい多数の有力な弟子ができ、ついには強固な基本をつくり、各国における柔道修行の源泉ともなり得るであろう。

そういうところに集まって来た人びとは、いきおい、皆日本を理解し、日本人と親しみ、国と国、人と人を結びつける媒介となり、相互の間に有益な結果をもたらすに相違ないと思う。ことに柔道は自他共栄を説くのであるから柔道の教えは、国際間の融和強調をすすめる上で大いに効果のあるものと信ずる
(加藤仁平・嘉納治五郎216頁)

この点、東海大学の橋本敏明教授は、嘉納が、優れた指導者の候補として海軍の将来の駐在武官に着目し、海軍に積極的に普及した点を指摘する。日露戦争で活躍した柔道家広瀬武夫氏は海軍の駐在武官としてロシアに赴任したが、このように高い知性と人格をもち、いわば外交官として各国の指導者層と交流する駐在武官は、柔道を教育システムとして普及するうえで適任だったのである。

柔道の歴史全体から見ると、ぼくは創始者嘉納治五郎は、当時の日本ではまれに見る国際人だったと思うんですよ。第一人者ですしね。柔道の嘉納治五郎先生に直に教えてもらった先生の話を聞くと、盛んに海軍に柔道を普及していったということなんです。何故かというと、海軍の武官達は、卒業すると全世界に駐在武官として派遣される。そうすると自ずと柔道が信用ある立場にある人々に理解されるからだというのです。

また嘉納先生ご自身も、英語、フランス語、ドイツ語などが外国人がびっくりするくらい流暢で、ロンドンでは英国人も関心する英語で講演されたという話も伺ったことがあります。柔道を通して日本の国づくりをするというのが、嘉納先生の精神の柱の一つではなかったかと思うんです。ですから、当時の柔道家の方が、我々より語学能力や国際感覚は、はるかに優れていたような気がするんです。(「松前重義 その国際活動Ⅱ」291〜292頁)

また、松前重義氏は、当時欧米に留学していた日本の知識人が柔道の普及に大きな役割を果たしたことを指摘する。

真に重要な役割を果たしたのは、かなりの期間にわたって現地に居留し、しかも私などより以上に熱意をもって指導に努めた一群の日本人知識人であった。たとえば先述の北畠教真君などもそのひとりであるが、他にも、のちに国際連盟事務局次長として活躍された外交官の杉村陽太郎氏、のちに東北帝大医学部長になった武藤完雄さんなど、私が知るかぎりでも十指におよぶ。欧米各地にわたってみれば、おそらく数百人はいたにちがいない。

そういう知識人柔道家たちは、外地でおうおうにして見かけるいわゆる一旗組の職業的柔道家たちとはちがい、柔道における合理性を解説しうるだけの近代的知性を有すると同時に、柔道における本質的な精神性や武道性をもその堪能な語学によって正しく伝える能力のある文化人であった。外交や学問その他のそれぞれの分野で国際的水準にある人物ばかりである。
したがって現地での知己関係や交際範囲も有識層、指導層であり、いわば柔道を高次元において理解しうる相手である。そのことによって柔道が、国際的にいかに正当に扱われるようになったかは、はかり知れぬものがある。

私は、ドイツ留学中、しばしばそのような日本の知識人柔道家と相識る機会があり、その人たちが果たした役割の大きさを痛感させられたのであった。
松前重義松前重義、我が人生」96〜97頁)

一応のまとめ

以上、日本が末永く繁栄するためにはどうしたらいいだろうか、という問いに関し、嘉納が行った二つのことをみた。
一つ目は、日本国民に対し、柔道をはじめとした良質な教育を提供すること、第二に、柔道という魅力的な教育システムを海外に普及することによって日本の「ソフトパワー」をつくりあげることであり、その際、嘉納は見世物的な「術」ではなく「教育システム」として受け入れられるよう苦心した。
次回は、この嘉納の足跡を参考に、これからどうしたらいいか、という点をみていきたい。

第35回 これからの教育からみた柔道(7)

前回まで、DeSeCoが示したこれからの教育の目標であるキーコンピテンシーをみてきた。いわば、教育はこれから何処に行けばいいのか(where)という点をふれたが、今回は、行き先が見えてきたならば、そこにどうやって行けばいいのか(how)という点をみていきたい。

キーコンピテンシーのポイント

繰り返しになるが、まず行き先であるキーコンピテンシーについて簡単に確認したい。

DeSeCoによると、現代の社会は、次のとおり「変化」「複雑」「相互依存」という特徴を深めているという。

  • 技術は急速かつ継続的に変化している。したがって、技術を扱う学習には、一連の作業を一時的に身につけることだけではなく、適応しつづける能力が必要となる。
  • 社会はより多様化し細分化している。したがって、個人的な関係において、自分と異なる者と交流することがより必要となっている。
  • グローバリゼーションは新しい形の相互依存を作りだしている。したがって、活動は、地域や国のコミュニティを超えて大きく広がる影響(例えば経済競争)と結果(例えば公害)に左右される。

このような特徴をもつ現代において、人と社会が豊かになるためには何が必要か。この問いを6年間かけて研究したDeSeCoは、次のようなキーコンピテンシーを創った。

ポイントは、態度、感情、倫理、モチベーションなどの「非認知的要素」の開発がなければキーコンピテンシーを身につけることができない、言い換えると、非認知的要素の開発をこれからの教育の目標として設定した、という点にある(知育中心の教育から徳育中心の教育への転換)。
※詳細は第30回 これからの教育からみた柔道(2) - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜を参照。

認知的技能と知識は、明らかに伝統的な学校プログラムを通じて達成される重要な学習成果であるが、コンピテンシーに関する考察はそうした認知的要素だけに限定することはできない。
労働市場での行動や知性と学習に関する最近の研究は、態度や動機づけ、価値といった非認知的要素の重要性を示している。これらの要素は、フォーマルな教育の領域では必ずしもあるいは全く獲得されず開発されていない。

(キーコンピテンシー27頁)。

識者の意見

このキーコンピテンシーは従来の教育を大きく変更するものであるが、例えば、教育学者の福田誠治氏は、明治維新に生じた教育目標の大転換に匹敵するとして次のようにいう。

ちょうど、幕末から明治にかけて、日本は諸藩から国家に再編成される時に、一人前の能力観から学校で身につける能力観に変わった。
今、諸国から広域連合にあるいは地球規模に経済や政治が再編成される時に、学校で身につける学力観は固定的な学力取得ではなく、生涯学習として開発し続ける能力観に変わりつつある。日本はそれに対応した国家戦略をもっているのか。

教育再生会議などを通じて持ち出される対策は、「愛国心」や「学力テスト」のような訓練的学力観であって、「攘夷!」「攘夷!」と叫んで鎖国を続け、武術の鍛錬に励もうとする斜陽の武士に似ていはしないか。

今の日本に、国内でしか通用しない知識や偏差値や学力テストの順位を過大視する大人の何と多いこことか。子どもたちの生きていく世界は、それとは違う明日の世界なのだ。私たちは「未来の学力」を子どもたちに用意しなくてはならない。
(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」226頁)

また、教育学者の門脇厚司氏は「このようなOECDの認識と決定に照らして日本の教育の実際をみてみると、落差の大きさに唖然とし憮然とする。」として次のようにいう。

もっと分かりやすく言えば、OECDは学校教育の目標を、「次の時代の社会の担い手としてふさわしい人間に育てること」にしたということである。教育目標を、人類社会が遭遇することになるであろう様々な難問を、自分の力で、あるいは他の人と力を合わせて、解決し乗り切っていける能力を備えた人間として育てることに定めたということである。

このようなOECDの認識と決定に照らして日本の教育の実際をみてみると、落差の大きさに唖然とし憮然とする。

小学校の教育は、よりいい中学校に入学するための点取り競争に、中学校の教育はよりいい高校に入るための点取り競争に、そして、高校の教育もまたよりいい大学に入るための点取り競争になってしまっているからである。これが日本の教育の実際であるのに、あろうことか、文部科学省は学力の向上を御旗に全国学力テストを開始し、こうした競争をいっそう加熱するというありさまなのである。

このような教育が行われている日本において、教師や親たちの頭から、児童・生徒・あるいはわが子が、最終的には、「社会人になる」という意識がすっかり抜け落ちてしまうのは当然のことである。こうしたありさまがこれからも続いていくとしたら、他者と協力しながら社会の問題を解決していこうとする態度やそれができる能力など身につくはずはない。そうなった時、日本の10年後、20年後はどうなるのか。社会の弛緩や破綻があちこちで顕在化するのが眼に見えている。
(門脇厚司「社会力を育てる」167頁)

現在の教育の問題点

DeSeCoも上記の識者も、テスト勉強のための教育に終始し、非認知的要素の開発を阻害する現代の教育を批判しているが、もうすこし具体的にいうと、何が一体問題なのだろうか。

この点、教育学者の佐伯胖氏は次のように指摘する。

教育の問題を本気で考えるとすると、コトはもっと複雑で深刻である。端的に言えば、子どもにとって、「わかること」や「できること」の意義が見えなくなってきている、ということである。「わかって、何になる」、「できたからといって、それがどうした」ということである。

こういう「わかって、何になる」式の不安と「先の見えない」閉塞性が、教室全体にかぶさり、教師や子どもも、それに圧し潰されていることがありありと観察できる。そこで子どもはやる気を失うか、受験という目の前の目標に自らを縛り付けて、「それ以外は考えないことにする」ということで当座を切り抜けようとしている。

教師も同じであって、教材をどういじっても、教授技術をどう工夫しても、「先がない」状態での一時しのぎをしているのではないかという疑問と不安をぬぐい去ることはできない。そこでともかく日々、カリキュラムにしたがって、「これを教えるのだ」と自らを限定してカラ元気で動き回り、気をまぎらせているのが現状である。
(「状況に埋め込まれた学習」解説184〜185頁)

「わかって、何になる」「できたからといって、それがどうした」。
学ぶことの意義が見えないのである。

これを社会人に置き換えるならば、「自分の仕事は誰の役に立っているのだろうか。」と疑念を感じながら、自分を押し殺して働くという状態だろう。

一方のバケツから他方のバケツに水を注ぎ、次にそのバケツから元のバケツに水を戻す、このような意味の無い作業を延々と強いられた囚人は自殺してしまうと話があるが(ドストエフスキー死の家の記録」)、学ぶ意義を感じないにもかかわらず学びを強いられた場合、人はどのような影響を受けるのだろうか。

少なくても、非認知的要素が発達した人間、「革新的、創造的、自律的、自発的」な人間に成長することが難しいことは明らかだろう。

非認知的要素を開発する方法

それではどうしたらいいか。
認知的要素と非認知的要素がともに開発できる教育、キーコンピテンシーを身につく教育の方法とはどのようなものなのか。

例えば、嘉納がとった主な方法は、徳育としての体育の振興や優れた教師の育成である。
柔道の創始普及や日本のオリンピックの参加など、あらゆる手段を尽くして嘉納は徳育としての体育の振興に努めた。
※詳細は第31回 これからの教育からみた柔道(3) - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜を参照。

また、子供と大人の交流する機会を増やすこと(第33回 これからの教育からみた柔道(5) - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜)、幼少期に倫理的な読書経験を積むこと([http://d.hatena.ne.jp/sakais/20110515:title=http://:title]も必要である。

様々な方法があるが、今回は「そもそも「学習」とは一体何なのか?」と問い、「学習」という概念や営みそのものを根本的に捉え直すことによって、これからの教育のあり方を示したレイブ氏とウエンカー氏の状況的学習論(著書「状況に埋め込まれた学習」における「正統的周辺参加」(LLP))をみていきたい。

現代の「学習」概念の問題点

それでは「学習」の概念について何が問題か。

DeSeCoも状況的学習論を参考にしているが、このDeSeCoは現在の「学習」概念について次のように批判する。

DeSeCoで見出された能力の概念は、政策にとって重要な意味を含んでおり、伝統的な教育と学習の方法の妥当性と有効性について疑問を引き起こす。

・・全人のためのコンピテンシーとキー・コンピテンシーを育成し、強化しようとする場所としての学校(教授と学習に責任がある近代社会の初等教育機関)の意味は何か?

学校は訓練の基礎的カリキュラムを通して、知識や認知スキルの伝達を伝統的に強調してきた。
・・ゴンチ・・は、まるで心が容器であるかのように事実、知識、信念、および観念で学習者の心を満タンにしてしまう、この伝統的な学習の概念に対して強く疑問を投げかけている。

古い学習理論のパラダイムは、学習が生じる環境に学習者を結びつける新しいパラダイムに代えられる必要がある。新しい学習の概念は、個人の認知的側面と同様に、感情、道徳、身体を考慮したものであり、そして現実の学習が行為の中で、および行為を通してのみ生じるという。したがって、キー・コンピテンシーの学習は、判断を下す力量をおそらく生涯にわたって増大させるという点で、現実の世界への働きかけを通じてのみ生じることができる・・。」

つまり、DeSeCoは、以下のようなことを言っている。

  • 現在の「学習」という概念は、学ぶ人を「空っぽの容器」と捉え、知識や技能を「空っぽの容器」に注ぎ込むものというように理解されている。
  • しかし、学ぶ人は、感情があり、身体があり、アイデンティティがある生身の人間であって、「空っぽの容器」ではない。
  • この点を無視し、「空っぽの容器」であるという前提のもと無理に知識や技能を注ぎ込むことから、キーコンピテンシシーの重要な要素である「非認知的要素」の開発が損なわれる。
  • つまり、現代の教育はキーコンピテンシーの育成方法として適当ではない。
  • したがって、「空っぽの容器」に知識や技能を注ぎ込む、という現在の学習概念を捉え直し、新しい学習概念を創らなければならない。

新しい「学習」概念

それでは、レイブ氏らの状況的学習論における新しい「学習」の概念とはどのようなものだろうか。

結論から先にいうと、状況的学習論では、「学習」とは「空っぽの容器に知識や技能を注ぎ込むこと」ではなく、「共同体に参加すること」であり、「参加のプロセスを通じてアイデンティティを創りあげること」であると捉える。

現在の「学習」の概念とは大きく異なるが、以下みていきたい。
ポイントは「仕事での学びと学校での学びは全然違う。」という大抵の社会人が有する感覚のなかにある。

例えば、次のような二つの例があるとする。

ある会社の社員が、上司から「今日からロシアを担当してもらう。よろしく。」といわれ、ロシア語をゼロから勉強することになった。「何故、俺がロシア担当なんだ。」とは思ったが、仕事を続けるうち、半年後、彼はロシア語をそれなりにできるようになった。

他方、ある高校では二年生はロシア語が必修となっている。高校生は「何故、英語ではなく、ロシア語を勉強しなきゃいけないんだ。」と思いながら勉強をし、半年経ってもあまり上達しなかった。

仮にこのような事例を考えた場合、ロシア語の上達の程度に差が出た理由はどこにあるだろうか。
大半の人は上達に差が出て当然だと思うだろう。「仕事の学びと学校の学びは全然違う。」と。
では、この自明なことをもう少しつっこんで考えてみると何が違うだろうか。

仕事は、上司や同僚、部下、お客さん、取引先など様々な関係者と関わりながら、誰かの何かの役に立つことをするプロセスである。この役に立つことをする過程でロシア語の学習が必要となり、結果的にロシア語の勉強をすることになる。

つまり、会社員の事例では、高校生の事例と異なり、ロシア語の習得がそれ自体が独立した目標ではない。あくまで誰かの役にたつことをするという中で結果的に必要とされるものである。

このようにロシア語を学ばなければ仕事が出来ないという状況にあれば、単に勉強する又はテストや進学のために勉強する場合と比較して、学習効率が大きく異なることは誰しもが体感している。

さて、ここからがポイントであるが、仕事をする過程で結果的にロシア語を勉強するという営みは、さらにつっこんで観察してみると、一体何を意味しているだろうか。

状況的学習論は、まず、「新参者」が「共同体」へ「参加」するプロセスであると捉える。

例えば、会社の新入社員や新しい部署に配転した社員は、仕事をするために必要なことを学ばなければならないが、学んで仕事ができるようになれば、上司や同僚、部下や取引先などを関係性を持つことができる。学ばずに仕事が出来なければ関係性を持つことが出来ない。「学習」とは、会社という「共同体」に「参加」するプロセスなのである。

その上で、状況的学習論は、「学習」とはアイデンティティが形成する営みであるという。
つまり、仕事ができるようになると、「新参者」が次第に「熟練者」になり、共同体の中での位置が周辺から中心に移動していくが、このプロセスの中でアイデンティティが変容していく。

例えば、新入社員が、仕事を覚えて経験を積み重ねるにつれて、頼もしい人になっていく。部活動の新入部員が稽古を重ねるにつれて次第に逞しい人になっていく。
これは共同体の周辺にいた「新参者」が次第に「熟練者」として中心に移行する過程で、アイデンティティが変容していくと捉えるのである。

・共同体と学習者にとっての参加の価値のもっと深い意味は、共同体の一部になるということにある。したがって帽子をかなりうまく作ったということは、仕立て人の徒弟が「一人前の職人」になったということの証拠なのである・・・十全的参加に向けての移動は、より多くの時間をさくこと、労力をより一層注ぐこと、共同体内でより大きな、より広い責任をもつこと、より困難な、危険を伴う作業につくこと、などだけではない。もっと重要なことは、熟練した実践者としてのアイデンティティの実感が増大していくということである。(「状況に埋め込まれた学習」97頁)

私たちは、アイデンティティの発達は新参者の実践共同体の経歴の中心であり、したがってそれが正統的周辺参加の概念の基礎であるということを主張してきた。・・実際、私たちは本書で展開した観点から、学習とアイデンティティ感覚とが分離し難いものであると論じてきた。両者は同一の現象の異なる側面なのである。(「状況に埋め込まれた学習」103頁)

非認知的要素の開発プロセスの「見える化

では、このように「学習」の概念を根本的に捉え直すことによって一体何が可能になったか。

従来の「学習」の概念は、学習者を「知識や技能を注入される空っぽの容器」と捉えたが、モチベーションや態度、感情、倫理といった非認知的要素については「空っぽに容器に注ぎ込んだ」としても身につくものではない。つまり、非認知的要素の開発は想定外だった。

したがって、先の高校生の事例でいうと「空っぽの容器にロシア語を注ぎ込んだ」結果、「ロシア語ができて何になる」「できたからといって、それがどうした」ということになる。ロシア語ができたときのメリットを「注ぎ込んでも」やる気がでるわけではない。

しかし、状況的学習論は、学習者を「共同体への参加のプロセスを通じてアイデンティティを構築する主体」として捉える。つまり、共同体の周辺から中心に移行する過程において「アイデンティティ」が形成される、すなわち非認知的要素が開発されると捉える。

先の会社員の事例で、「なぜ自分がロシア関係の仕事をしなければならないのか。」という疑問は生じても、「なぜロシア語の勉強をしなければいけないのか。」という疑問は生じない。仕事をする、すなわち「共同体」に「参加」するプロセスでロシア語の勉強が必要であることは自明であるからである。

そして、仕事を積み重ね、周りの人々から「よくがんばった」「ありがとう」などというやり取りが行われる過程で、共同体の周辺にいた「新参者」が中心に移動しはじめ、次第に「自分はロシア関係の仕事ができる人」というアイデンティティを形成していく。

このようなアイデンティティの形成されると(=非認知的要素が開発されると)、ロシア語をさらに積極的に学ぶことになる。

いささか単純な例ではあるが、状況的学習論は、従来ブラックボックスであった非認知的要素の開発プロセスを「見える化」したのである。

この結果、状況的学習論は、非認知的要素を開発することができる「学習」には、「共同体」と「参加」が必要であることを明らかにした。

したがって、もしキーコンピテンシーを体得できる教育を目指すのであれば、「学校」の役割は大きく転換する。
「空っぽの容器に知識を注ぎ込むこと」から、「共同体」への「参加」をサポートすることに転換しなければならない。この点、佐伯胖氏は次のようにいう。

LLP(引用者注:正統的周辺参加の略。本稿では状況的学習論のこと)では学習をコントロールするのは実践へのアクセスであるとする。つまり、教材や教師の役割がそこにあるとすれば、学習者をいかにホンモノの、円熟した実践の本場(アリーナ)を当初からかいま見させて、そこへ「行ける」実感をもたせ、また、たとえごくごく周辺的であっても、そこにつながっているということがなんとなくわかるような、実践の手だてを講じてあげる、ということになる。
教師がやらせるから学ぶのではない。教師がホンモノの世界(円熟した実践の場)をかいま見させ、そこへの参加の軌道(trajectories)を構造化する一方、子どもはその世界との漸進的交流で、自ら学んでいくときの「共同参加者」となる、ということになろう。
(「状況に埋め込まれた学習」佐伯胖氏の解説190頁)

これからの柔道への視座

それでは、状況的学習論は、これからの柔道にどのような視座を与えるだろうか。

まず、状況的学習論は、柔道修行者が「精力善用」「自他共栄」という「道」をどのようにして体得するかという点に関し、新しい視座を与えてくれる。

つまり、「精力善用」「自他共栄」とはそれを体得した人から「教えてもらう」というものではない。同様に山に一人篭って修行すれば身につくものでもない。

「精力善用」「自他共栄」を主要な価値観としている「共同体」があって、その共同体に「参加」するプロセスにおいて体得するものなのである。

例えば、「親に無理やり道場につれられてきた素行不良の子どもが、稽古をするうちに素行が良くなった」というケース(第33回参照)は、柔道クラブという「共同体」への「参加」の過程で、すなわち、柔道が上達し、柔道クラブの中での位置づけが「新参者」から「熟練者」に移行する過程で、共同体が有している倫理や価値観(例えば、「礼節を守る」「努力する」「仲間を大切にする」「強い者は弱い者を助ける」など)を取り入れて、アイデンティティが変容したと捉えることができる。

逆に言えば、極端な話、勝者が敗者を蔑むのは当然であるということを主要な価値観とするクラブに参加したならば、技術の向上に同時に、人を蔑む人間に変容していく。

したがって、「精力善用」「自他共栄」を体得した人間を育成し、人類の共栄を図るという柔道の長期的目標を達成する方法とは、如何にして「自他共栄」「精力善用」を主要な価値観とする「共同体」をつくりだし、如何にしてそこにより多くの人の「参加」を促していくか、という問題に還元される。

まさに佐伯胖氏がいうように、「私たちははじめて、今日の教育をとりまく社会的・文化的問題と、一人ひとりの学習者の「学び」の問題を結びつける基礎的なフレームを得た」のであり、

「これを今後どのように展開していくかは、・・新しい協力関係をもった共同体をつくりだし、そこへの正統的周辺参加を、今から、みんなで、始めていくしかない・・」のではないだろうか(「状況に埋め込まれた学習」佐伯胖氏の解説190頁)。

新しい協力関係をもった共同体を作り出す方法

それでは、如何にして「自他共栄」「精力善用」を主要な価値観とする「共同体」をつくりだし、如何にしてそこにより多くの人の「参加」を促していくのか。

本稿の解は、既に何度も述べている通り、異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をし、その地でホームステイをさせていただき一定期間生活する、このような経験を万人に提供する仕組みを創りあげることである。

すなわち、「場」(プラットフォーム)を創り、ある道場で稽古をする青少年と、異なる地にある道場を結びつけ、単独では出せない価値を生み出すというものであり、世界各地の道場が手を取り合って、修行者を育成する仕組みである。
詳細は第27回 新しい仕組み内容と可能性 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜を参照。

異国の道場に参加した「新参者」は、柔道の稽古をともに行うことを通じて、次第に「共同体」の中心に移動し始める。この「異質な集団の中で交流」するプロセスを通じて、これからのグローバルな世界を生きるために必要なアイデンティティが構築されていく。

嘉納は、柔道について、特殊な好みをもった人向けのスポーツとしてではなく、「一般的に人間として必要な修養の方法と認められる」のであれば大きく普及するという。

かくして柔道が技術ばかりでなく、一般的に人間として必要な修養の方法と認められるようになれば、今日のようにある年齢であっても特にそういうことに趣味をもっているものばかりではなく、今いっそう一般的に行われるようになるに相違ない。遂には特殊の人の柔道でなく国民の柔道となることが出来よう。(嘉納・著作集2巻275頁)

柔道の技術は大切である。また貴重なものである。しかし、もし技術が単独に存在して智徳の修養に伴われていなかったならば、世人は左程柔道家を重んじないであろう。他の修養と離れた技術は、軽業師の技術と比較し得るものであって、特に取り立てて尊重する価値が認められまいと思う。柔道の修行者が文武の両道にわたって研究練習を積んでこそはじめて国家社会に大いに貢献することも出来、世人から尊敬を受くることも出来るのである。(嘉納・著作集第2巻89頁)

異国の地で稽古し生活をするという教育方法を取り入れた柔道は、これからの世界において「一般的に人間として必要な修養の方法」として認められのではないだろうか。

以上、全7回にわたって教育という視点からこれからの柔道をみてきたが、次回は日本という視点からみていきたい。

第34回 これからの教育からみた柔道(6)

※作成中
今回は最後のキーコンピテンシー「自律的に活動する(acting autonomously)」についてみていきたい。

内容

DeSeCoによると、「自律的に活動する」とは、次の三つの力を意味する。

  • 大きな展望の中で活動する
    • 「think globally act locally(グローバルに考えてローカルに行動する)」というスローガンにある程度表現されているが、身近な状況だけではなく、自らの行動がもたらす長期的、間接的な影響も配慮し、自分の利害だけではなく、他者の利害も考慮して活動すること。
  • 人生計画や個人的プロジェクトを設計し実行する力
    • 例えば、新しい仕事やアパートを見つけること、新しいスキルを学ぶこと、旅行に行くこと、地域のコミュニティを改善することなどである。目標を設定し、また複数の目標に優先順位をつけ、実行するために必要な資源(時間やお金など)を検討して効果的な計画を立て、状況の変化に合わせて適当な調整を行い、適宜、進捗を管理していくことなど。
  • 自分の権利、利害、限界やニーズを表明する能力
    • 他者の犠牲になるのではなく、自らが求めるものを主張し、自己を尊厳ある存在として取り扱い、行動に責任を持つこと。特に、現代は、多くの点で個人の権利や利益が他者のそれと対立し、ルールが複雑になっており、個人が自ら活動しなければ自己の権利等を守ることができない状況にある。

必要性

「自律的に活動する」ことが必要な理由について、DeSeCoは次のようにいう。

自律的に活動することは、社会的に孤立することを意味するのではない。反対に、これによって、人は、自分の社会的な関係、自分の果たす役割と果たしたい役割、環境に気付くことが求められている。これによって、人は、自分の生活と労働条件をコントロールし、意義深く責任ある方法で自分の生活をマネージメントする力を得ることが求められているのである。
人は、社会の発展に効果的に参加し、職場、家庭生活、社会生活を含む生活の様々な面がうまくいくために、自律的に活動しなければならない。なぜなら、単に大衆に追従するのではなく、人はアイデンティティを独立して発達させ、意思決定を行う必要があるからである。そのようにしながら、人は、自分の価値と行動を検討する必要がある。
自律的に活動することは、それぞれの人の役割が伝統的によく定まっていた場合と異なる現代の世界において、特に重要である。人は、自らの生に意味を与え、どのように適応するかを決めるために、個人的なアイデンティティを作る必要がある。一つの例として、仕事に関し、一人の雇用主に勤める安定した生涯にわたる職業は少ない、
一般に、自律性は、未来に対する適応と、社会的関係、自分の果たす役割と果たしたい役割、という自分の環境に対する気付きを求める。これは、健全な自己概念と、ニーズや欲求を、意思決定、選択、行動のような意思ある行為に転換する力を持つことが前提とする。

自律的(automonously)

さて、ポイントは、「自律的に(automonously)」という点にあるが、その意味するところは、その時々の状況において、思慮深く、他者にも配慮して責任ある効果的な行動をとる(相対的な自律性)というだけではなく、アイデンティティを創り、かつ、発展させるという点にある。

つまり、大きな展望を持ち、プロジェクトを実行し、自らの求めるものを求めることによって、自らの生に意味を付与するという、いわば自己実現にむけて活動することを意味している。

例えば、田坂広志氏は、次のような二人の石切職人の話をあげている。

旅人がある町を通りかかりました。その町では、新しい協会が建設されているところであり、建設現場では,二人の石切り職人が働いていました.その仕事に興味を持った旅人は、一人の石切職人に聞きました。

「あなたは何をしているのですか」

その問いに対して,石切り職人は,不愉快そうな表情を浮かべ,ぶっきらぼうに答えました。
「このいまいましい石を切るために,悪戦苦闘しているのさ」

そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に、同じことを聞きました。すると,その石切り職人は、表情を輝かせ、生き生きとした声で、こう答えたのです.

「ええ、いま、私は、多くの人々の安らぎの場となる素晴らしい教会を造っているのです。」

「石を切る」という同じ行為を行っているにもかかわらず、一方のアイデンティティは「いまいましい石を切る人」であり、他方は「素晴らしい教会を作る人」である。
「いまいましい石を切る人」になるか「素晴らしい教会を創る人」になるかは本人の選択に委ねられているが、どちらのアイデンティティが「人生の成功(successful life)」に近いかは明らかだろう。

このように、DeSeCoが育成したい「自律的に活動する力」とは、自分の人生により大きな意味を付与するような、アイデンティティを創りあげ、さらにそれを発展させていく力を意味している。

例えば、たった一つの石を切っているだけでも、全体的に見て、教会を作っている(だから自分の仕事に価値がある)と認識することができ(大きな展望)、自分が真に求めることが「素晴らしい教会を作る」ことであり、「石切」のほかに「建物の設計」もしたいのであれば、それを周りに伝え、設計の仕事もできるよう交渉する(自己の権利等を表明する)、そして、設計の専門学校にいって勉強を始める(プロジェクトを実行する)、というようなことである。

それでは現在の学校は、このような自律的に活動する力を育成しているだろうか。

あえて単純にいえば、多くの学生は、学校教育の中で、国語数学などの「道具」の習熟が求められ、そのトレーニングを積んできたところ、突然、就職活動の際、会社の採用担当者から、志望理由や部活動など勉強以外のことを聞かれ(「自律的な活動」ができるか否かを問われ)、びっくりしているというのが現状ではないだろうか。

「自律的に活動する力」には、知識や情報処理能力などの「認知的要素」以上に、モチベーション、倫理、世界観、態度といった「非認知的要素」の開発が必要不可欠である。前にふれたように、DeSeCoは、現代の教育が認知的要素の開発に偏り、非認知的要素の開発を阻害していることを問題視しているのである。

柔道

それでは、DeSeCoがこれからの教育において「自律的に活動する力」が必要であると定義したことは、これからの柔道のあり方にどのような示唆を与えるだろうか。

第一に、そもそも嘉納治五郎は、柔道を通じた「自律的に活動する力」の育成を企図していたという点を確認する必要があるだろう。

嘉納は、柔道の稽古を通じて「自他共栄」「精力善用」を体得できるのであり、体得したら人生百般すべてに応用しなさいと教えていたが、この「大きな展望の中で活動する力」と「自己の権利、ニーズ等を表明する力」は「自他共栄」の中に、「人生計画や個人的プロジェクトを設計実行する力」は「精力善用」の中に含まれている。

例えば、「Aさんを投げたい。」と思って、新しい技を探し、何度も繰り返し練習し、失敗したら其処から学んでさらに稽古のやり方を工夫し、またAさんをよく研究するなどして、遂にAさんを投げた、という場合、これはまさしく「個人的プロジェクトを設計し実行した」ということである。

また、嘉納は、「稽古をするものは、相互に対手のためを図りながら自分のためを図るという心掛が必要である。・・修行者がだれも皆そういう心掛で練習してこそ、・・乱取の練習が徳性涵養の方法となり得る」というが、これは「大きな展望の中で活動(他者に配慮する)」しつつ「自己の権利等を主張した」ことである。

つまり、嘉納は、「柔道の稽古でAさんを投げることが出来たならば、それは「精力善用」や「自律的に活動する力」が身についてきたことだから、その力を、学力を上げるとか、本を読むとか、旅行するとか、あらゆる場面に応用しなさい。」と、そして、
「無自覚に稽古をしても身につかない。何故、稽古をするのかを意識して行うことで初めて身につくものである。だから、「精力善用」「自他共栄」を体得するという目的を常に意識しながら稽古しないさい。」と常々話していた。

したがって、これからの教育と柔道を考える上で重要な点は、柔道は「自律的に活動する力」が身につくように設計されてるが、そのような力が身につくような「運用」が実際に行われているか、という点にあるだろう。例えば、生徒が指導者の言うがままに単に稽古をしたのでは「自律的に活動する力」は育成されない。

旅、ホームステイ、物語

第二は、本稿で検討している仕組み(異なる地にある道場で稽古をしホームステイをする)についてである。

「旅」や「他人の飯を食う」「同じ釜の飯を食う」経験が「大きな展望の中で活動する力」や「プロジェクトを設計実行する力」「自分の権利等を表明する力」を育成することは明らかだろう。

ごく普通の高校生が単身外国にいって道場で1週間稽古をしてくる、たったこれだけのことだが、実行するためには、大きな展望の中で活動する力、プロジェクトを立案実行する力、自己の権利等を主張する力が大いに求められるのである。

その上で、さらに着目したい点は、

  1. 「自律的に活動する力」を育成する方法として「物語」があること、
  2. 嘉納治五郎の物語は「自律的に活動する力」を育成する「物語」であること、
  3. そして、本稿で検討している仕組みは、嘉納治五郎の物語を現実に再現し、実体験を伴うものであることから、「物語」が持つ効果を最大限発揮できること、

という点である。以下詳細にみていきたい。

問題の所在

まず、改めて問題の所在を確認する。

「こんなに目に光のない子どもたちが多い国は世界のどこにもない」(筑紫哲也スローライフ」)といわれるように、日本人の「自律的に活動する力」や文部科学省が定義した「生きる力」が減少しているという指摘はよく行われている。

では、何故、減少したのだろうか。そして、どうすれば向上するのだろうか。これがここで扱う問題の所在である。

この点、前回は、門脇厚司氏の著書「社会力を育てる」をもとに、子どもと様々な大人が直接交流する機会が激減し、子どもの心の中に社会の一員であるという意識が形成されず、責任ある大人になりきれないことが原因の一つではないかという点にふれた。

今回は、齋藤孝氏の著書「代表的日本人」をもとに、少年期に倫理性の高い「物語」を生きる経験、つまり、生き方が学べるような読書による擬似経験が減少しているという点をみていく。

小説家、佐藤紅緑

齋藤孝氏は、「代表的日本人」として、昭和初期、少年向けの小説雑誌「少年倶楽部」に「あゝ玉杯に花うけて」などを連載し、爆発的なヒットを生み出した小説家、佐藤紅緑を取り上げた。
それは何故か。

理由は、次のように、当時の少年たちに対し、悪に屈せず、ズルをせず、努力を惜しまず、世のため人のために生きるという、生きていくために正しい生き方、倫理観を、物語を通じて浸透させたからである。

子供たちが小説の主人公になったかのような気分で、勇気や卑怯を憎む心を内側から体験したことが、佐藤紅緑の影響力の特長でした。

もちろん「『武士道』にはこういうことが書かれているから、君たちもしっかりと勇気を持ちなさい」とか、「卑怯なふるまいをしてはいけませんよ」というように、真正面から説教するのは教育の基本スタイルですが、物語というスタイルが広く深い教育的効果を発揮することがあるのだということを忘れてはなりません。自分の人生を物語に重ね合わせ、物語の中で生きることを疑似体験することによって精神的に成長します。

少年時代の同化しやすい心を鋭く見抜き、そこへ向けて働きかけてくる作家が影響力を持ちます。
主人公が危機に直面する場面を読むと切羽詰った気持ちになり、主人公が友だちに裏切られるような箇所では、本当に自分が裏切られたように悲しくなる。少年時代の同化能力の強さに寄り添いながら、紅緑の小説は子供たちの心に深く入っていきました。

紅緑が物語をとおして伝えたのは、ストーリーもさることながら、生きていくための倫理観でした。彼の小説には倫理の基本がすべて入っていて、それを読むことによって、これからの世の中を生きていくための基本となる心構えや態度が自然に学習できます。そこが、この小説の優れた役割でした。(齋藤孝「代表的日本人」103〜104頁)

戦後日本の高度経済成長期は、この佐藤紅緑の物語を読んだ少年が大人となって働いた時代だった。ところが、昨今、テレビゲーム等が流行り、同化能力の非常に高い少年期に、物語中に生きる疑似体験をする経験が著しく減少した。
必ずしもこれだけが理由ではないとしても、この結果、日本人の心から、向上心や「世のため人のために尽くしたいという気持ち」が減少しているという。


小説一つで世の中が変わるわけではありませんが、明治時代の人々が持っていた素晴らしさを次の世代に伝えることに成功しました。世界に伍していくためには正しい生き方をしなければならない、自分はズルをしないで、みんなのためにがんばっていこう。こんな正しく、まっすぐな気持ちを子供たちに注ぎこむことによって、明治の精神は辛うじて命脈を保つことが出来たのだと思います。

しかし今日のように、いちばん心の柔らかい少年時代にずっとゲームばかりをやっていると、まっすぐな倫理観は伝わりにくい。ゲームで生き方を学ぶのは難しいし、そもそもゲームに人格形成を求めること自体馬鹿げています。ゲーム中心で、倫理観を養ってくれる少年小説などをあまり読まずに少年時代を過ごしてきた世代が、いまではもう二十代、三十代になっています。

この世代に、働く気持ちが薄れているように感じられるのは、たんに偶然ばかりとは思えません。もちろん、その原因を、ゲームに費やす時間が多かったからとばかりは言えないと思いますが、日本人の心の中から向上心が低下しつつあるのは否定しがたい現実です。何かを学び、それを一生懸命生かして、世のため人のために尽くしたいという気持ちが、幼い頃に定着していないのです。
齋藤孝「代表的日本人」114頁)

ただ楽しく、笑っていれば、それで済むというような生活では、その後が立ちゆたかなくなります。お笑い番組に打ち興じ、ゲームで時間をつぶし、寸暇を惜しんでケータイで友だちと連絡を取り合うということだけで小・中学校時代を過ごしてしまうと、善なる生き方に対して向かい合う姿勢など生まれようもありません。齋藤孝「代表的日本人」118頁)

その上で、齋藤孝氏は、現在の日本には全体的に「漠然とした不安感」があるが、その不安の根源は、真面目さや向上心を嘲笑する傾向が強くなっていることへの不安にあると指摘するが、これは多くの人々が納得するところではないだろうか。

いま日本全体を覆っているように思える漠然とした不安感は、そんな向上心のない国民ばかりになったら、これからどうなるのだという気分にも根ざしているように思います。その不安は、日本が貧しくてもどうしようもない、ということから来ているのではありません。社会の中に、真面目さやひたむきさを嘲笑し、働く気持ちや向上心といった基本的な姿勢を軽く扱う傾向が強まりつつあることが不安感の根源にあるのです。

日本が経済的に苦しかった昭和20年代には、こんな不安はありませんでした。「働こう」という気持ちが全体にみなぎっていて、この時代は不安感というより、何かをやらなければいけないという気持ちのほうが勝っていました。だから、現代が抱えているような未来への不安感はありませんでした。

確かに、昔と現代を比較すると、少年期の過ごし方が大きく変わっており、その中でも、テレビやゲームに費やす時間は著しく異なる。
齋藤孝氏は、このような現状だからこそ、積極的に、生きる姿勢を学ぶことができる「物語」を読み、物語の主人公としての疑似体験をすべきであると指摘する。

現在は、基本となるモチベーションが落ちてしまっています。そういうときこそ、子供の頃に、世のため人のために生きる気持ちを励ます文学作品や伝記を読み、人はどのように生きるべきなのかを考えることが大切です。今日では、社会が自然な雰囲気として向上心を教えてくれるわけではありません。働く気力の原型を形作るためにも、積極的な工夫が必要なのです。

私は、人間のライフサイクルにおいて最も倫理的な時代は小学生時代だと思います。小学生のときは、いろいろな物事を素直に受け止め、素直に考えられる時代です。その頃にこそ、善とは何か、よりよく生きるとはどういうことなのかを徹底的に教えるべきでしょう。そうして、勇気を持つことが重要だとか、悪を憎む心が重要だとか、友情が大事だということを、人生の基本にまず据えるよう導くべきなのです。(齋藤孝「代表的日本人」116頁)

以上が齋藤孝氏の指摘であるが、ここでのポイントは、単に「〜するな」という説教という方法のほか、「物語というスタイルが広く深い教育的効果を発揮することがある・・」という点にある。

他人に配慮できるやさしい人になってほしい、つらいことがあってもくじけず一歩でも半歩でも前に進んで乗り切ってほしい、誇り高く生きてほしい、そのように願う場合、真正面から「説教」をするという方法のほか、「物語」の中を生きる機会を作るという方法があるのである。

嘉納治五郎の物語

それでは、柔道は子どもの生きる力を育むような「物語」をもっているだろうか。

幼くして母を亡くし、成績は優秀ながらも身体が強くなかったため友人からいじめられた嘉納は、強くなりたいという一心で、当時廃れていた柔術という「異界」に足を踏み入れる。

その柔術修行中、嘉納に心技体を授けた師はその役割を終えたように世を去り、嘉納は三つの道場を旅する。この旅の過程で、単に「強くなりたい」というわが身の思いからはじめた嘉納は、この素晴らしいものを世に広げたい、と願う利他的な人間に成長してこの世に還ってくる*1

この世に還ってきた嘉納は、自他共栄の社会を築かんとして、柔道の開発と普及からはじまり、日本の公教育の教師の育成、中国人留学生の教育、オリンピックを通じた体育の振興、道徳の根本原理の探求など、まさしく世のため人のために己を尽くす。

この嘉納治五郎の物語は、生きる力や自律的に活動する力など、人が生きるうえで大切なものを育むだろう。

本稿で検討している「異国の道場で稽古をする」という仕組みは、この嘉納の物語を再現するものである。
参考:第26回 「かわいい子には旅をさせよ。」と「他人の飯を食う。」 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜
読むだけでも効果がある「物語」を体験することができたならば、どれほどの効果があるだろうか。

嘉納の物語がもつ可能性については改めてふれるとして、今回はここまでとし、次回は、これまで見てきた、定義した教育の成果を、今度は、どのような方法で実現したらいいのか、という点をみていきいきたい。

*1:「たまたま」嘉納の師が世を去り、そして、新たな師に出会い異なる流派の柔術を学んだことが柔道を創るきっかけとなった。

第33回 これからの教育からみた柔道(5)

今回は「異質な集団の中で交流すること(interact in heterogeneous groups)」をみていきたい。


内容

内容は次のとおりである。

  • 他人といい関係を築く
    • 共感:相手の立場にたって、その視点から状況を想像すること。これは内省を促すものであり、このとき、個人は、様々な意見や信念を熟考しながら、その状況で当たり前だと思っていたものが必ずしも相手と共有できるものではないことに気づく。
    • 感情の効果的なコントロール:自分を認識している状態を保ち、自分自身と相手の心の底にある感情やモチベーションの状態を効果的に読み取ること
  • 協力する。チームで働く。
    • 自分のアイデアを出し、他の人のアイデアを傾聴する力
    • 議論の流れを理解し、計画に従うこと
    • 戦略的又は持続可能な協力関係を作る力
    • 交渉する力
    • 異なる様々な意見を考慮して決定をするキャパシティー
  • 争いを処理し、解決する
    • 異なる立場が存在しうることを認識し、問題となっている争点や利害(例えば、権力、メリットの把握、役割分担、公正さ)、争いの原因、あらゆる側面の論拠を分析すること、
    • 合意できる領域とできない領域を確認する
    • 問題を再構成する
    • 進んで妥協できる部分とその条件を決めながら、要求と目標の優先順位をつける

意義

DeSeCoは、何故、「異質な集団で交流すること」が必要かについて次のようにいう。

人は、物質的にも精神的にも生きていくために、そして社会的なアイデンティティという点でも、人生を通じて、他の人々とのつながりに依存している。社会が様々な点でより断片化し、またより多様化するなか、個人の利益を得るという点でも協力関係の新しい形を作り上げる上でも、個人の人間関係をマネージメントすることは重要になっている。

既存の社会的つながりが弱くなり、新しい社会的つながりが強いネットワークを創る力をもった人々によって作られるように、ソーシャルキャピタルを創りあげることは重要である。様々なグループにおける、ソーシャルキャピタルを創り上げそこから利得を得る力の違いは、将来、不公平さの潜在的な原因の一つになる可能性がある。

このカテゴリーにおけるキーコンピテンシーは、他者と共に学び、生活し、働くことを個人に求める。このキーコンピテンシーは、「社会的能力」「ソーシャルスキル」「社会的スキル」「異文化間能力」「ソフトスキル」といった用語に関係する特性の多くに対応している。key competencies

参考:ソーシャルキャピタルソーシャル・キャピタル - Wikipedia

ポイント

それでは、このコンピテンシーのポイントを2点ほどみていきたい。

「異質な」

異質な集団(heterogeneous groups)の対義語は「同質な集団(homogeneous groups)」であるが、

第一のポイントは、これまでの人は「同質の集団」で交流すれば事足りたが、これから人は「異質な集団」で交流することができないと豊かな生活や社会を築くことはできない、ということが示した点である。

原語はheterogeneousとなっているが、このことばはhomogeneousと対をなす用語である。同質集団内では、コミュニケーションをして意見調整することはまず必要ない。それとは逆に、異質集団では、同一の行動を一斉に行うという集団行動が前提となっているわけではないので、諸個人あるいは諸団体の意見調整が必要となり、読解力という言語力が生きてくることになる。2(異質な集団で交流する:筆者注)の前提となっているのは、同質性ではなく異質性なのである。
(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」212頁)

では、何故「同質集団」ではなく、「異質な集団」で交流することが求められるようになったのか。

この点、統合を進めるEUの例が分かりやすい。教育学者の福田誠治氏は、「異質なものを交流させる能力こそ、統合ヨーロッパにとっては死活問題となる」と指摘し、その理由を次のようにいう。

国民教育制度として、誰もが到達すべき国定の知識・技術を決め、正しい答えに向けて教え込むという教育は終わりを告げる時代に来ている。

国民国家を前提とした教育は、その目的を国民作りにおく。国民パックとも言うべき「知能・技能の国民標準」が定められ、同一の行動規範、同一の能力・知識・技能・意識が求められる。知識や意識が同一であるから、国民内での交流は不要であり、注入とプロパガンダ(宣伝ないし啓蒙)があればよい。教育とは正しい答えを教える啓蒙のことでしかない。

ところが現在のヨーロッパは、文化の蓄積と歴史のある国民国家を超越するEUを形成しなければならない。教育の統治を国家を超える機関に置き直すとともに、国民作りという教育目的を市民育成に置き換えざるを得なくなる。そうなると、行動規範は多元的となり、能力や知識や技能は異質なものが共存することを認めざるを得なくなる。だから、異質なものを交流させる能力こそ、統合ヨーロッパにとっては死活問題となる。

ここに、「国際教育指標(INES)事業」の活動主体としてのOECDが登場し、国際学力調査PISAに「読解力」を主要学力として組み込み、また、非認知的側面を重視する学力観を構成する要因が生じることになるのである。(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」192頁)

政治的な統合を進めるEUは最先端の例ではあるが、貿易のグローバル化や科学技術の普及により「相互依存」はますます進み、同質集団の中で完結することはできなくなった。例えば、雇用の場をみても、外資系企業はもとより、海外展開する日本企業が外国人を雇用する割合は年々上昇し、また最近、楽天ユニクロ(ファーストリテーリング)は社内の公用語を英語にした。

要は、「義務教育(強制教育)」によって、「同一の行動規範、同一の能力・知識・技能・意識」をもった「国民国家」という「同質の集団」を作り、主に同質集団の中だけでコミュニケーションをし、異質な集団とのコミュニケーションは一部の限られた人だけが行って、発展するというパターンがうまくいかなくなった、ということである。

そこで、DeSeCoは、これまでの同質性を前提としたコミュニケーション能力の育成から、異質性を前提としたコミュニケーション能力の育成に、教育目標を転換すべきと提言した。

同質性を前提とした教育から異質性を前提とした教育へ

さて、これは、同質性を前提とした教育から、異質性を前提とした教育に転換するであるが、これが意味することは、「人間を全体集団として扱い、みんなが国民として同じ能力を身につけるべき」という教育観から「人間個々人が市民としてそれぞれ違う能力を身につけてよいと考える」教育観へ転換することである。

この点、フィンランドは異質性を前提とした教育の成功例といえるが、このフィンランドの教育を研究した福田誠治氏は、この教育における「コペルニクス的転回」について次のようにいう。


筆者は四年間に八度のフィンランド通いをしたのだが、日本とフィンランドの違いは、なかなか理解できなかった。なぜなら、まったく違う論理で日本の教育学が組み立てられているからである。

私たちは、子どもは一人ひとりみな違うという。その点では、日本もフィンランドも考えの違いはない。その一人ひとりに違った子どもが集まるので、クラスもまた一つひとつみな違う。この点でも、異論はなかった。すると、クラスが違えば、教師は違う対応をするでしょう。このようにフィンランドの教育関係者も行政官も言った。筆者は、クラスが違っても日本中同じことを教えていると言った。

日本の教師は、クラスのみんなに同じことを教え、クラスのみんなが同じことを学び、同じ学力をもつべきだと思っている。「どの子にも100点を」という発想は、その実、教師の想定する学力を持たない者は「落ちこぼれ」「できそこない」だと見なしていることになる。

一人ひとりが違っていて、その一人ひとりにかけがえのない価値があり、その一人ひとりが力を伸ばす努力を支援する、これがフィンランドの教育学なのである。ヒトは人間になろうと一人ひとりが同じように努力するけれど、結果は同じではない。違った能力が伸びていってもよいと考えるわけである。

日本からも、フィンランドの教師育成を探りに研究者がたくさん詰めかけた。だが、この教育学の相違に気づいた者は何人いるだろうか。(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」48頁)


日本とフィンランドとの違いはどこから生まれるのか。

それは、人間を全体集団として扱い、みんなが国民として同じ能力を身につけるべきだと考えるか、人間個々人が市民としてそれぞれ違う能力を身につけてよいと考えるかという教育観の根本に発生する。それもフィンランドでは、学者だけでなく、行政官も、親も教師も生徒も、財界人も政治家も、たいていの人はそう思っている。

実は教育のコペルニクス的転回はここにある。

教える行為と学ぶ行為は授業で一体化すべきはずのものであるが、フィンランドは教える行為から学ぶ行為へと教育の重心を移しつつある。そして、グローバリズムに対応して、「知識・技能の国民パック」の伝達・注入を止めたのである。(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」233頁)


筆者は、フィンランドでは「16歳までテストをしない」という点にこだわった。なぜテストがないのに子どもたちは勉強するのだろうか。これは、どう考えてもわれわれ日本人には理解できないことである。突き詰めて考えていくと、知識や技能は人それぞれ異なっていてよいという教育哲学と、それならば一人ひとりに合わせて支援するよう教育実践が行われ、そのために教師の専門性が発揮されていると見なす他はない。本当にそうなのか、なぜそれが可能なのか。

言い直そう。同じことを全員に教え込む教育学なのか、一人ひとりに合わせる教育学なのか、ここがまず日本や今日のアメリカ・イギリスとはっきり異なる。次に、フィンランド社会が教師を専門家として養成し、その専門性が十二分に発揮できる制度を作り出していることが、日本のマニュアル通りに動く教師と、行政の行う教育の品質管理制度とは大きく異なる。フィンランド教育に、OECD教育局やEU欧州委員会教育文化総局がスポットライトを当てて、歴史の寵児として扱ったことは、フィンランド教育を未来型の教育として経済界が注目したということだ。
(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」50頁)

日本人の解釈では、正しい答えに合わせるように教え込むことが教育である。その結果、みんな行動は一致する。答えは一つ、知識も一種類しかない。学力向上とは、単一の物差しの序列を上がることに他ならない。

一つの物さしの上下が学力の違いになるというわけでだ。そして、誰もが100点をとることが理想となる。だが、これは古い学力だ。日本人の考える「生きる力」は、そのような同質性と直線的な学力観の上に立っている。

ところが西洋の場合、人間は一人ひとり違う、つまり異質なものなので、多様な人間の一致点を少しづつ増やしていき、またそれぞれのよいところを組み合わせてもっと大きな力がでるようにコミュニケーションの能力を育てようとする。これがPISA型読解力の真のねらいである。

もっている知識や技能は人それぞれ違っていて、相手や場面に合わせて使い分けていくもので、答えは一つではない。また、すぐその場で出てくるものでもない。ねばり強く解決に向かって、情報を集め、自分の考えもまた修正し、人間や自然に向かって働きかけ、解決を成し遂げなくてはならない。

読解力とは、これらの行動を系統づけ、調整し、他者や自分自身とコミュニケーションする力のことであり、そこにはメタ認知的機能も含まれているのである。(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」214頁)

改めて考えてみると、何故、同じ地域の同じ年齢の人々が同じクラスになり、同じ授業を受け、事前に決まっている答えを覚えテストで書くというのが標準的な教育になっているのだろうか。
ここには「異質な集団」(例えば「大人」)はなく、テスト勉強をしている限り他者と協働(コラボレーション)する機会もない。

DeSeCoは、これからの人や社会が豊かになるためには、「異質性」=「多様性」をもった人々が「コラボーション」をして「イノベーション」が必要であると考え、教育目標の転換を提言したのである。

なお、地域統合を進めるヨーロッパは、従来の「国民創出」を目的とした各国の教育だけでは不十分であると考え、各国の教育目標を統一するため、「国民創出」にかわる新しい教育目標を作ろうとしている。DeSeCoはこのヨーロッパの取り組みから大きな影響を受けて作成されているが、国家の教育目標を「国民創出」とするか、国民創出に代わる「コンピテンシー」とするか、アクセンントの置き方は各国の置かれている政治状況によって異なるのだろう。

もっとも、政治状況は異なっても、求められる力に関してパラダイムシフトは生じているようである。
福田誠治氏は、明治維新時の教育観の転換を例に挙げ、子どもたちが生きていく世界は、今とは異なる明日の世界であるとして、次のように指摘する。

ちょうど、幕末から明治にかけて、日本は諸藩から国家に再編成される時に、一人前の能力観から学校で身につける能力観に変わった。
今、諸国から広域連合にあるいは地球規模に経済や政治が再編成される時に、学校で身につける学力観は固定的な学歴取得ではなく、生涯学習として開発し続ける能力観に変わりつつある。日本はそれに対応した国家戦略をもっているのか。

教育再生会議などを通じて持ち出される対策は、「愛国心」や「学力テスト」のような訓練的学力観であって、「攘夷!」「攘夷!」と叫んで鎖国を続け、武術の鍛錬に励もうとする斜陽の武士に似ていはしないか。

今の日本に、国内でしか通用しない知識や偏差値や学力テストの順位を過大視する大人の何と多いこことか。子どもたちの生きていく世界は、それとは違う明日の世界なのだ。私たちは「未来の学力」を子どもたちに用意しなくてはならない。
(福田誠治「フィンランドは教師の育て方がすごい」226頁)

reflectivenessの向上

第二のポイントは、「異なる集団の中で交流すること」が"reflectiveness"を向上させるという点である。以下みていきたい。


現在の社会が抱える様々な問題の、根本的な原因は一体何か。

この点、『社会力を育てる」(岩波新書)の著者である門脇厚司氏は、「子ども」が「一人前の大人」となるプロセス、つまり、自らが社会の一員であると自覚し、自分のためだけではなく、他者のためにも自分の力を活用し、他者と協力して物事を行うことができるような人になるプロセス(「社会化」)に異変が生じていると指摘する。

この「子ども」を「一人前の大人」とするプロセスの異変こそが、いじめ、不登校、退学、無気力、引きこもり、学卒無業者、テレビ依存、薬物依存、リストカット、自殺、売春、児童虐待など様々な問題の根本的な原因であり、

逆に、もし、このプロセスを回復させ、自分のためだけではなく他人のためにも自分の力を活用し、他者と協力して物事を行うことができる「一人前の大人」を育成することができれば、これらの問題はもとより、地球環境や貧困や社会的格差、食料問題、紛争などあらゆる問題を解決することができると。

では、何故、「子ども」を「一人前の大人」とするプロセスに異変が生じたのか。

それは、これまで「社会化」を担っていた地域のコミュニティが崩壊し、子どもが大人と直接的に交流する機会が激減したからである。

私の見方はすでに序章で述べたところであるが、日本人の社会力が衰退したのは、社会力が培われ、育てられ、強化される上で、最も重要な「現場」である他者と相互行為する機会と場と時間が極度に少なくなったことにあるといっていい。

その結果、ヒトの子が社会人として成長していく上で最も重要な「他者の取り込み」が不全となり、それゆえに自我の形成も不全となり、他者への関心や愛着が薄れることになる。そのため、他者との関わりや他者との協働、他者との相互行為など自ら避けるという性向(predisposition)が強まる悪循環が生じることになったからだと言える。

こうした悪循環をどう断ち切るか。生まれた直後からの社会力育てを果敢に進めることである。まずもって、大人が、日常生活の現場で、子どもと積極的に関わり、子どもとの応答(相互行為)と協働を意図して行うことである。もっとありていにいえば、子どもを交えた社会生活を大いに楽しむこと以外に有効な手立てはない。(門脇厚司「社会力を育てる」152頁)

明治維新以来、日本は、第一次産業(農業、漁業)、第二次産業(工業)、第三次産業(サービス業)と産業構造を変化させながら経済成長を遂げたが、それは農村部から都市部への大量の人口移動をもたらした。

この結果、農村部のコミュニティはほとんど崩壊した反面、都市部には、「隣人が誰か分からない」ということに象徴されるように、新しいコミュニティは生まれなかった。また、大家族から核家族へと変化し、、一世帯あたりの平均人数も、1960年までは平均5人だったのに対し、現在は平均3人に減少している。

現在、子育てとは親の責任であると考えられ、それが当然のことであると考えられている。しかし、実は、この考えはここ40年程度の新しい考えであり、それ以前は、子育てとは社会(コミュニティ)の共同責任であると考えられていた。

例えば、生まれた子どもには、「取り上げ親」(赤ちゃんを取り上げた産婆さん)、「乳付け親」(最初の授乳を別の母親に頼む)、「拾い親」(子育ちのよい家にいったん拾ってもらう)、「名付け親」など様々な「仮親」がいた。

また、「産飯」「三日祝」「宮参り」「食初」など、子どもの成長の節目節目には、地域の大人が集まって「同じ釜の飯を食う」機会があるなど、子育てに多くの大人が関わる仕組みとなっており、子どもは一定の年齢になると「子ども組」「子守仲間」「若者組」「娘組」など地域の集団に組み込まれ、親は子育てから離れていく。

このように、子育ては村総がかり、コミュニティ全体で取り組むものであり、決して親の単独の責任ではなかったのである(辻本雅史「教育を「江戸」から考える」156〜168頁)

しかし、コミュニティが崩壊した結果、子どもが実の両親以外の大人と交流する機会が激減する。

人とのつながりと「社会化」

それでは、子どもと大人が直接交流する機会が減少すると、何故、「一人前の大人」になることが困難になるのだろうか。

この点、門脇氏は、「生きている多くの人たちとのつながりの中に身をおいてこそ、「社会がある」ということを、そして「社会の中で生きている」ことを実感できる」という。

人が「私も社会の一員である」という自覚をもつことができるのはどうしてだろうか。

私の見方を言えば、様々な人たちと好ましいつながりができており、普段から親しく付き合いつつ、自分のやるべきことをやったり、誰かのために何かやってあげたりすることで、誰かに感謝されたり便りにされたりすることから生じる自尊的な感情がおおもとにあるからである。心地よい人間関係の中にあって、そこに信用でき信頼できる誰かがいて、自分もまた誰かに認められ頼りにされ、互いに助け助けられつつ生きているとき、人は「私も社会の中にいる」と実感できるのであり、そこから「自分も社会の一員である」という自覚を募らせていくことになる。

それとは逆の場合はどうであろうか。

一日のほとんどを一人で過ごし、誰とも付き合うことがない。それゆえ頼りにできる人ができるわけでも身近にいるわけでもなく、また自分を認め自分を頼りにしてくれる人がいるわけでもない。このような場合、その人が「自分が社会の中で生きている」と実感することはまずないはずである。なぜなら、社会の実態は日々生きている人間がそこにいることであり、そこで生きている多くの人たちとのつながりの中に身をおいてこそ、「社会がある」ということを、そして「社会の中で生きている」ことを実感できるからである。

このような認識の上に立って、日本の人びと、とりわけ若い世代の現状を見るとき、悲観的になるのを禁じえない。社会の一員であるという自覚が生まれる原点ともいえる他者との緊密なつながりを自ら切断するか、つながりそのものをつくろうとしなくなっている人たちが多くなっているように思えるからである。(中略)

多様な他者と好ましい人間関係を築くことをせず、むしろ他者を貶め、攻撃する心性の持ち主が増えているとしたら、そこから「私も社会の一員である」という意識が生まれてくる可能性はきわめて低い。「私も社員の一員である」という自覚をもつことができないとしたら、公共心や道徳心が培われることはない。

公共心とは、煎じ詰めれば、社会の一員であるという意識があり、それゆえに社会のためになることを進んでする心根のことであるからである。また、道徳心とは、端的に言えば、いい人間関係を築いたその他者とのいい関係を今後とも損ねないようにしようとする他者への配慮の心であり、他者を大切にし思いやる諸々の行為のことだからである。(門脇厚司「社会力を育てる」30〜32頁)

人とのつながり、様々な大人と交流する機会をもつことによって、子どもは「自分も社会の一員である」という自覚をもち、自分のためだけではなく、他者のためにも自分の力を活用しようという心根を持った人になる。

つまり、「異質な集団で交流すること」というキーコンピテンシーの育成によって、"reflectiveness"が向上するというである。

では、人とのつながりや交流がもたらす「社会化」に焦点をあわせた教育は行われているだろうか。

例えば、以下のよな取り組みがある。

  • 茨城県東海村、毎週土曜日を「テレビを見ない日」にし、子どもと大人が交流する機会を作る活動。
  • 長野県の幼児教育振興プログラム、社会力形成を目的とし、大人と子どもの交流を促進するプログラム。幼稚園や小中学校での交流事例などを紹介。親子でのスタンプラリーや手作り料理を家族で楽しむためのレシピの配信など。
  • 山形県戸沢村、子どもを対象とし、蝶の保護、わら細工や門松作り、河川の美化、山林の伐採や炭焼き、酪農の手伝いなどを大人と一緒にする「地域の学校」づくり、子どもと大人の四泊五日の合宿、他の家のお風呂に入らせてもらう「もらい湯」など。なお、このような取り組みの結果、全国学力テストの成績が著しく向上した。
  • 長野県青木村山形県戸沢村をモデルとした活動を開始
  • 京都府舞鶴市、子どもたちが、地域の課題を大人たちの協力を得ながら解決策を考える総合学習を実施。
  • ラボ教育センター、英語教育を軸に大人と子どもが話し合い、演劇、泊り込みの合宿、海外でのホームステイなどを実施。
  • 筑波大学大学院、学生が市民団体やNPO活動に参加し社会力を育成するカリキュラムを作成、実施。
  • NPO法人ニュースタート不登校や引きこもった若者に、食堂経営、デイサービス、託児施設などに参加してもらい、集団生活や仕事の体験を通じて、社会復帰を支援する活動(以上、門脇厚司「社会力を育てる」178〜202頁)
  • 東京都和田中学校杉並区立和田中学校 - Wikipediaの取り組みをモデルとした、学校教育に大人が協力する仕組みとしての、文部省の学校地域支援本部学校支援地域本部に関すること(平成20年~平成28年):文部科学省
  • スポーツを軸とした地域のコミュニティ作りを進める文部省の総合型地域http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/club/1234767.htmなど

しかし、門脇氏は「"人と人がしっかりとつながっていること"の重要性を念頭において改善策や教育政策が構想され、議論され、考えられることがまだまだ少ない」と指摘し、次のようにいう。

くどいようであるが、本章の最後に、もう一度、社会生活を営むための社会力の重要性について述べておくことにしたい。

社会の将来について想いを巡らすときも、近い将来、社会の担い手になる子どもたちの教育について議論するときも、あるいは社会が直面している様々な問題の解決策を考えるときも、制度や法律をどうするかといったことは頭にあっても、残念ながら、''人と人がしっかりとつながっていること''の重要性を念頭において改善策や教育政策が構想され、議論され、考えられることがまだまだ少ないと思うからである。

これまで何度も述べてきたことであるが、社会をつくっているのは、私たち人間である。日々社会の中で泣き笑いしながら生きている私たち人間なのである。このことはまぎれもなく社会的な事実なのである。このことがわかれば、社会の質は社会をつくっている人間の質にかかわっていることも容易にわかるはずである。

社会が安定的に維持されているかどうかは、その中で人びとが安心して暮らしていけるかどうかで判断できることであり、社会が活力を保ちさらなる発展を遂げることができるかどうかは、そこで人々が将来に希望をもって生きているかどうかにかかっていることである。

こう考えれば、社会の現状を見る目や社会の将来を考える視点は、自ずと、人びとの営む日常的な社会生活に注がれることになるはずである。そして、社会生活の現場とも核心ともなっている人びとの交わりの''実際の場''である相互行為に注がれることになるはずである。そして、さらには、社会を考えるポイントが日々相互行為をする人びとの''人とつながる力''いかんに絞られるはずである。

こうして、今、目をこの点に凝らしてみると、現代人の人と人をつなぐ磁力といえる社会力が極度に衰弱していることに気付く。ではどうするか。私の答えは、当然ながら、「社会力を育てるしかない」ということになる。(門脇厚司「社会力を育てる」145〜146頁)

柔道

以上、「異質な集団の中で交流する」というキーコンピテンシーについて、第一に、これからの人には「同質の集団」だけではなく「異質の集団」で交流する必要があること、第二に、「異質な集団の中で交流すること」によって、自分のことしか考えられない「子ども」を自分のことも相手のことも共に考えられる「大人」に変貌させること(社会化、reflectivenessの向上)の重要性についてみた。

それでは、DeSeCoがこれからの人は「異質な集団の中で交流すること」が必要であると教育目標を定義したことは、柔道のあり方にどのような影響を及ぼすだろうか。

柔道の実績

第一に、柔道は「異質な集団の中で交流する」という機会を作り出し、人々のreflectivenessを向上させてきた、特に子どもたちの「社会化」を図ってきた、という事実を改めて確認すべきだろう。

親に無理やり道場につれられてきた素行不良の子どもが、稽古をするうちに素行が良くなったということはよく聞く話である。
これは、つまり、柔道が、子どもが、その先生や他の仲間、仲間の親などと直接交流する機会を作り、その結果、「多様な大人たちとの直接的な交わり(相互行為)を通して、子どもたちの中に多くの大人が他者として取り込まれ」、「社会の一員であると意識が生まれた」ということである。

重要なポイントなので改めて確認するが、人とのつながり、様々な大人と交流する機会をもつことによって、子どもは「自分も社会の一員である」という自覚をもち、自分のためだけではなく、他者のためにも自分の力を活用しようという心根を持った「大人」に変貌する。

この「社会化」のプロセスが正常に機能するようになれば、人も社会も豊かになるが、逆にうまく機能しなければ、苦しい生を送ることになる。なぜなら、社会の一員であるという自覚の低い、つまり道徳のレベルが低い場合、嘉納の表現を借りるならば、「自己の欲するところは事ごとに他人の利益を衝突し、社会国家人類の福祉と矛盾する」からである。

道徳上の最も低い位置にあるものは、自己の欲するところは事ごとに他人の利益を衝突し、社会国家人類の福祉と矛盾する。それゆえに、道徳の高い人は、他のためになること、すなわち徳行することが、自身の満足と一致する。道徳の低い人は、もし道徳を行うとか、正しいことをしようと思えば、絶えず苦痛を感ぜざるを得ぬのである。

現代は、従来の地域コミュニティが崩壊し、また社会が「複雑化」し、「無縁社会」という言葉が流行るように、人とのつながりが希薄化しているという。
このよう状況において、柔道は、世代や性別、民族、宗教などを超えて「異質な集団の中で交流する機会」を作り出し、人々のreflectivenessを向上させてきた。このことの意義とポテンシャルがどれほどのものであるか想像がつくだろうか。

いずれにせよ、第一のポイントは、この柔道が社会において果たしてきた役割を改めて確認することである。

嘉納

さて、嘉納が万人のreflectivenessを向上させるために柔道を創ったということは前々回ふれた。

要は、自分のことだけしか考えられない「子ども」が他者のために自分の力を活用できる「大人」に変貌した(「社会化」)とは、「精力善用・自他共栄」の精神を身につけたということである。

第二のポイントは、嘉納は、「異質な集団の中で交流する機会」がreflectivenessを向上させることを認識しており、「異質な集団の中で交流する機会」を万民に提供しようとして、柔道を作り、また、オリンピックに日本を参加させ西洋スポーツの振興を図ったという点である。

嘉納は、道徳教育と体育を併用する理由について次のようにいう。

道徳教育は、単に講釈や訓戒だけでは存外力のないものである。実際の行いに結び付けて話もし、注意警告もしてこそ効能が現れやすいのである。

しかるに教育者は、概して生徒と起居を共にしているものではない。普通の教場においては、教員は時間時間に当嵌められてある各種学科の教授に忙殺されていて、教室においては一般的に教訓する機会が少ないが、運動場においてまたは道場においては、個人として生徒に接触する機会が比較的多い。そういう場合に、あらゆる手段を尽して道徳教育を施せば、存外効果のあるものである。
(嘉納・著作集3巻312頁)本稿第13回第13回 道徳は独立の課目としては教えない。 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

嘉納は、「運動場においてまたは道場においては、個人として生徒に接触する機会が比較的多い。」から道徳教育が効果的があると考え、そのため柔道やスポーツを普及させたのである。

勝ち負けに拘泥する

これら第一、第二でみたように、柔道は、これからの人と社会が豊かになるための「異質な集団で交流する機会」を提供することができるし、そもそも原点からそのような目的をもっていた。

それでは、現在の柔道は、十分に「異質な集団で交流する機会」を提供しているだろうか。つまり、「他人といい関係を築く」「協力する。チームで働く。」「争いを処理し、解決する」ような力が身につく教育を施しているだろうか。

この点、柔道ルネッサンスは「ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し」て開始されたが、少年サッカーではあるが、永井洋一氏によると、勝敗のみを重視した結果、人を平気で蔑む子供が育てられているケースがあるという。


このように、監督・コーチ、あるいは両親が勝敗の結果のみを重視する考え方になり、そのために優勝劣敗の哲学を振りかざしていると、それが子供にも伝播し、子供も同じように露骨な優勝劣敗の考え方を持つようになってきます。

その結果、レギューラーに選ばれて試合で活躍している優れた能力を持った子供は、やがて、能力に恵まれない子供を見下したり、力の劣った対戦相手を平気で蔑んだり、不利な判定を下した審判を批判したりするようになります。

また、勝てる試合でミスをした仲間をなじり、「勝つためにはあの子が穴だ」などと考えたり言ったりするようにもなります。そして、「何ができるようになったか」という過程を重視することよりも、「何位に入ったか」「何回勝ったか」というように勝敗や数字に表れる結果で物事を判断するようになります。(永井洋一「スポーツは「良い子」を育てるか」65〜66頁)


チームスポーツには他者への思いを育み、自他を協調させていく能力を伸ばすという側面があります。それは、人と人とのコミュニケーション力を醸成する能力を養い、やがて社会をつくる力となる可能性を秘めています。

ところが、かのチームの子どもたちのように、自分の力を誇示し、弱い相手を蔑むことを平気で行うように育てられたとすれば、チームスポーツを行うことが、必ずしも社会をつくる力として昇華されないということになります。
永井洋一「スポーツは「良い子」を育てるか」166〜167頁)
本稿第1回第1回 柔道は「良い子」を育てるか。 - 勇者出処 〜嘉納治五郎の柔道と教育〜

実態は分からないが、「勝ち負けのみに拘泥」した場合、自分の力を誇示し、弱い相手を蔑むという性向をもった子ども、つまり、「異質な集団の中で交流する力」が弱い子どもを育ててしまうおそれがある、という指摘は注意すべきだろう。

最後に

最後に、これから子どもたちは、今とは比較にならないぐらい、「異質な集団」と交流する力を身につけなければならないが、どのようにすればこのような力が身につくのだろうか。

本稿の提案は、これまで検討してきたように、次のような経験を多くの人々に、特に青少年に提供する仕組みを創ることである。

  • 異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をすること、
  • そして、可能であれば関係者宅にホームステイをさせていただき、稽古している期間、その地で生活すること、

「かわいい子には旅をさせよ」「他人の飯を食う」「同じ釜の飯を食う」、
もし、柔道がこのような「異質な集団の中で交流する」機会はより多くの人々に提供することができるのであれば、世界で最も優れた教育機関の一つになるのではないだろうか。

第32回 これからの教育からみた柔道(4)

これから三つのキーコンピテンシーについて概観するが、今回は「道具を相互作用的に用いる」についてみていきたい。

「道具を相互作用的に用いること」の具体的な内容は次のとおりである。

  • 言葉、シンボル、テクストを相互作用的に用いる
  • 知識や情報を相互作用的に用いる
  • 技術を相互作用的に用いる

DeSeCoは、「道具」という言葉について、言葉(母国顔、外国語など)、数字、表やグラフ、知識・情報(理科や社会など)、技術(特に、情報・コミュニケーション技術)など広い意味で使っている。

このキーコンピテンシーは、概ね従来の「知育」の分野に該当する概念であるが、ポイントは「相互作用的に(interactivelly)」という点にある。

それでは「道具を相互作用的(interactivelly)に用いる」とはどのような意味なのだろうか。DeSeCoは次のようにいう。

グローバル経済及び情報社会における社会的、職業的な要請によって、コンピュータのような物理的な道具と同じく、言語、情報、知識のような、知と相互作用をするための社会文化的な道具を身につけることが求められている。

道具を相互作用的に用いるためには、これを扱うために必要となる道具や技術的なスキルを利用する(例えば、テキストを読む、ソフトウエアを使う)以上のものが必要となる。

個人は、また、知識やスキルを創造し、それを適応させる必要がある。これには、道具そのものに精通すると同時に、どのようにしたら道具を世界と相互作用できるよう変化させることができるか、どのようにしたら道具をより大きな目標を達成するために使うことができるか、という点を理解することが必要となる。

この意味で、道具とは、単なる受動的な媒体というだけではなく、人とその環境が活発に対話するための装置なのである。

人は、認知的、社会文化的、物理的な道具を通じて世界に出会う。これらの出会いによって、今度は、どのようにして世界を理解するか、どのようにして世界において役立つ存在となるか、どのようにして転換や変化に対処するか、どのようにして長期にわたる難題に対応するか、という点が定まる。

道具を相互作用的に用いることは、人が世界を理解し、世界とかかわりを持つことについて、新しい可能性をひろげる。(key competencieshttp://www.oecd.org/dataoecd/47/61/35070367.pdf10頁)

内容が捉えづらい感じがするが、ポイントは、道具を用いることに関し、態度、感情、価値観や倫理、動機付けなどの「非認知的要素」を最大限活用するという点にある。

その切り口が「道具を通じて世界に出会う」という理解であり、例えば、日本語という言葉を使えるからこそ日本という「世界」に出会うことができ、「相互作用的に」とは、単に話したり聞いたりするだけではなく、他者と対話し、他者に影響を与え、また他者から影響を受けて、自分自身の価値観やアイデンティティが変容し、同時に、その人の日本という「世界」もまた変容していくプロセスを表している。

それでは、「道具を相互作用的に用いる」という成果の定義は、従来の知育と比較して、どのような特長をもっているのだろうか。具体的には次の2点を意味している。

知識や技術を実社会で活用する

一つは、学校の教育目標を「テストでいい点をとる力」の育成から「実社会で知識や技術を活用できる力」の育成へと転換することである。

もし、道具を通じて世界に出会い、自らの世界観やアイデンティティの形成にその道具を密接に関係づけることができれば、自己実現や良き社会の実現に向けて、その道具を積極的に活用することができる。

逆に、多くの知識をもち様々な技術を使うことが出来ても、自らのアイデンティティや世界観に関連付けられなければ、いわゆる「マニュアル」通りにしか使えず、自らの善き生の実現に向けて活用することができない。

PISA

この点、経済開発協力機構(OECD)は、この「道具を相互作用的に用いる」というキーコンピテンシーに関する教育の効果を測定するため、義務教育修了段階の 15 歳児を対象に、次のような国際的な学力調査(PISA)を実施している。

□読解力

  • 自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考し、これに取り組む能力

□数学的リテラシー

  • 数学が世界で果たす役割を見つけ、理解し、現在及び将来の個人の生活、職業生活、友人や家族や親族との社会生活、建設的で関心を持った思慮深い市民としての生活において確実な数学的根拠に基づき判断を行い、数学に携わる能力

□科学的チテラシー

  • 疑問を認識し、新しい知識を獲得し、科学的な事象を説明し、科学が関連する諸問題について証拠に基づいた結論を導き出すための科学的知識とその活用。
  • 科学の特徴的な諸側面を人間の知識と探究の一形態として理解すること。
  • 科学とテクノロジーが我々の物質的、知的、文化的環境をいかに形作っているかを認識すること。
  • 思慮深い一市民として、科学的な考えを持ち、科学が関連する諸問題に、自ら進んで関わること。

日本では、このPISAの成績の下落を一つのきっかけとして(例えば、2000年、数学リテラシーが1位、科学的リテラシーが2位であったが、2009年、数学リテラシー9位、科学的リテラシー5位)、学力低下の指摘やゆとり教育批判が行われ、全国学力テスト全国学力・学習状況調査 - Wikipediaが復活したが、

教育学者の門脇厚司氏は、「OECDが想定している学力は、多くの日本人が考えている学力観とはまったく異なるものである。」として、次のようにPISAの特長を説明している。

これは、日本で一般的に理解されているような、児童生徒の知識の量をみるといった試験ではない。日本ではいまだに、「学力」とは教えられた知識をどれだけ記憶しているかのことと考えられており、それゆえ「学力」があるとは、記憶している知識の量が多いことであると理解されている。
しかし、OECDが想定している学力は、多くの日本人が考えている学力観とはまったく異なるものである。

OECDが想定している学力とは、知識のあるなしではなく、学校で学び身につけた知識をこれからの社会生活にどれだけ有効に活用し、将来遭遇するであろう様々な問題を自分で考え、さらに他の人の考えを聞きながら判断し、自分で、あるいは皆と協力しながら問題を解決することができる能力である。

そうした能力こそこれからの社会で求められる「学力」(PISA型の学力)であると考え、その程度を、すなわち問題を解決できる知識活用能力をどれだけ備えているかを確認しようという試み(プログラム)が、学習到達度国際調査なのである。(門脇厚司『社会力を育てる』29頁)

生涯学ぶ

もう一つは、人生の一時期にだけ学べば十分というのではなく、生涯学び続けることができる人の育成である。

もし、道具を通じて世界に出会ったならば、道具を通じた世界と対話を通じて、道具の使い方や道具そのものを変化・成長させていくことができる。つまり、社会のの変化に適応し、豊かな人生を送ることができる。

他方、「世界」との出会いがない学びであれば、継続することは困難だろう。学ぶことをやめると、社会の変化に適応することが困難になる。

最近(平成23年2月)、都内の電車にこれをうまく表現した広告コピーが掲載されていた。ソフトバンクホワイト学割の広告である。

もう一回、学生やり直すってどう?

ところで、ニッポンどうなんだろう。いろいろ期待したのになかなか変わっていかない。元気がない。とはいえ、誰かを叩いたり足を引っ張ったりしている場合ではない。

学んでる?勉強は学生がするもの、その考えがいけないんだと思う。
だから多くの大人は学校でたら学ばない。古い考えにしがみついて変わろうとしない。この国がなかなか元気にならない理由はそこにあるんじゃないのか。

学ぶことに年齢なんか関係ない。学ぶことに卒業なんてない。いま大人こそ学ばなきゃ。俺も学ぶよ。もちろん学生諸君も!

ニッポンは学生から元気になるのだ。

「非認知的要素」

以上、簡単に「道具を相互作用的に用いる」というキー・コンピテンシーの内容をみたが、このように、自己実現のために知識や技術を活用することや生涯学びつづけるためには、モチベーションや価値観、態度といった「非認知的要素」の開発が不可欠である。

「問題がむずかしいとやりたがらない子、むずかしい問題ほど目を輝かせる子。一度の失敗で、もうダメだと落ちこむ人、失敗すると、何がいけなかったのか考える人。このちがいはどこからくるのか?」

この点を研究した心理学者のキャロル S.ドゥエック氏は、いくら努力しても自分の知能や才能は変わらないという知能観と、知能や才能は成長するという知能観の違いにあると指摘したが、このような知能観という「非認知的要素」が知識や技術の習得に大きな影響を及ぼすのである(キャロル S.ドゥエック 「「やればできる!」の研究」)。

現代の教育の問題点

それでは、「道具を相互作用的に用いること」が身につくような教育が現在、行われているだろうか。

教育学者の福田誠治氏は、端的に、次のように指摘する。

テストのための勉強では本当の実力が付かず、子どもだちの能力は開発されない。米英同様、日本でも、この点をきわめて多くの大人たちが理解していない。ここが一番の問題なのだ。(福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』227頁)

では、「テストのための勉強では本当の実力が付かず、子どもだちの能力は開発されない。」ということは、具体的にはどのような意味なのだろうか。

教育学者の佐伯胖氏は、本質的な問題について、次のように指摘する。

教育の問題を本気で考えるとすると、コトはもっと複雑で深刻である。
端的に言えば、子どもにとって、「わかること」や「できること」の意義が見えなくなってきている、ということである。「わかって、何になる」、「できたからといって、それがどうした」ということである。

こういう「わかって、何になる」式の不安と「先の見えない」閉塞性が、教室全体にかぶさり、教師や子どもも、それに圧し潰されていることがありありと観察できる。そこで子どもはやる気を失うか、受験という目の前の目標に自らを縛り付けて、「それ以外は考えないことにする」ということで当座を切り抜けようとしている。

教師も同じであって、教材をどういじっても、教授技術をどう工夫しても、「先がない」状態での一時しのぎをしているのではないかという疑問と不安をぬぐい去ることはできない。そこでともかく日々、カリキュラムにしたがって、「これを教えるのだ」と自らを限定してカラ元気で動き回り、気をまぎらせているのが現状である。(ジーン レイ, エティエンヌ ウェンガー 「状況に埋め込まれた学習」佐伯胖氏のあとがき 184〜185頁)

DeSeCoによると、これからの人は、「革新的、創造的、自律的、自発的であること」、「道具を相互作用的に用いること」、知識や技術を自己実現やよき社会の実現に向けて活用し、また、生涯、新しい知識や技術を学び続け、研鑽していくことが求めらられている。

しかし、「わかって、何になる」「できたからといって、それがどうした」という本質的な疑念をもちながら、受験以外を考えないようにしてテスト勉強をし、10代20代を「切り抜けてきた」子どもたちが「革新的、創造的、自律的、自発的」に育つだろうか?道具を「相互作用的に」用いることができるだろうか。

福田誠治氏は、国際的な学力調査を分析し、次のようにいう。

PISA調査など各種の学力調査の結果を分析してみると、大きな矛盾に突き当たる。日本の子どもたちは勉強する気がない、勉強の対象となる教科に興味がない、学力を自分の人生とつなげて考えていない、それなのにテストの点数は高いのである。日本の教育は、やる気のない子どもを追い立てて、点数をとらせることでは世界一かもしれない。(福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』51頁)

「勉強する気がない、勉強の対象となる教科に興味がない、学力を自分の人生とつなげて考えていない」というのであれば、いくら知識や技術を身につけても「道具を相互作用的に用いること」はできないだろう。

このように現在の教育は問題がある旨指摘されているが、では、どのようにすればいいのだろうか。

この点は改めてふれてみたい。ここでは、DeSeCoが従来の「知育」の分野における「非認知的要素」の開発を教育の成果と定義したこと、まずはこの意義の大きさを確認しておきたい。

柔道

それでは、「道具を相互作用的に用いる」というキーコンピテンシーは、柔道のあり方にどのような影響を及ぼすだろうか。ここでは簡単に二点あげておきたい。

一つ目は、柔道もまた「道具」であること、つまり、「柔道を相互作用的に用いること」が教育目標になりえるということである。

要は、DeSeCoは、選手権大会という晴れ舞台で活用するだけではなく、実社会のなかで自己実現や豊かな社会の実現に向けて柔道を活用できる人材、そして、若い頃だけ一時的に稽古するのではなく、生涯、稽古することができる人材を育成すべきではないか、と言っているのである。これは嘉納が話している内容と殆ど同じだろう。

二つ目は、柔道は、言語や数学、知識や情報、IT技術など他の「道具」の体得をサポート・促進する役割があるという点である。

柔道は、有酸素運動の一つとして 脳内を活発化する効果があり、道具(言葉、数字、知識、情報、情報技術など)の体得を容易にする効果がある。

(参考)

したがって「道具を相互作用的に用いる」というキーコンピテンシーの体得に必要不可欠な運動のひとつとして柔道を積極的に活用する必要があるだろう。

日本の教育には、「おまえはバカなんだから、勉強しなくてもいい。その分、運動でかんばれ」とか、「頭いいんだから、運動とかしてないで、勉強だけしてればいい」的な、知育又は体育のどちらか一方だけでいいという風潮が一部にあったように思われるが、このような教育がどれほど人の成長を妨げてきたのだろうか。

古代ギリシアの哲学者プラトンは次のようにいう。

人生において成功するために、神は人にふたつの手段を与えた。教育と運動である。しかし、前者によって魂を鍛え、後者によって体を鍛えよ、ということではない。その両方で魂と体の両方を鍛えよ、というのが神の教えだ。このふたつの手段によって、人は完璧な存在となる。(ジョンJ・レイティー「脳を鍛えるには運動しかない」)